枕元に「草枕」
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To『The Three Cornered World』  なんて表紙だ。

 日本の有名な文学作品を、たまたま英語書籍の棚で見つけると、思わぬタイトルに驚くことがある。「The Ize Dancer」(伊豆の踊子)って、なんとなく分かるけど納得できない。「and Then」って何のこと?と思うと(それから)である。英語にすると拍子抜けするような語感になる。これで意味が通じているのが不思議なところだ。

 それで愛読ではなくて愛聴している『草枕』を見つけたら、タイトルが『The Three Cornered World』となっている。なんのことだろう。「三角の世間」だろうか。

 グレン・グールドが亡くなった時に、枕元に「聖書」と「草枕」が置かれていたというのは有名な話で、彼のラジオ番組では「草枕」の朗読もおこなっていたそうだ。その日本語のタイトルである「枕」と関係があるとは思えないが、ここ数年、寝る前に枕元で「草枕」の朗読を聴いている。何度聴いても飽きない。漢文みたいな日本語が多くて、意味がつかみにくいために飽きないのかもしれない。

 漱石は口語文の確立されていない時代に、当時の最先端の日本語を駆使していた。
「三四郎」ぐらいになると、現代から見て自然な日本語になるが、それ以前はちょっと古い文語っぽいところが見られる。そして「草枕」では、そんなこと気にかけないかのように、漢詩や文語体の詩などもふんだんに出てくる。そもそも語り手の主人公が「余は」と言っている。

 本文の前に着いている、訳者の「はじめに」の後半にこんなことが(たぶん)書いてある。『直訳すると "The Grass Pillow" になるが、それでは意味をなさないので、この作品のテーマと考えられる部分をタイトルにした』『「草枕」は漱石の他の本よりも、著者の心境を明瞭に知ることが出来る』

 さらにタイトルと「はじめに」の間のページに本文からの引用がある。
”An artist is a person who lives in the triangle which remains after the angle which we may call common sense has been removed from this four-cornered world.”SOSEKI
 「四角な世界から常識と名のつく一角を摩滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう」

 芸術家に限らず、天才とか偉人とかという人々は、いっけん普通の人よりも多くの能力を持っているかのように思われているが、実はそうではなくて、普通の人の持っている能力の一部を欠いていると考える人がいる。簡単に、ぼやかして言うと、普通の人が常識としてしなければいけないと思っていることを、社会に洗脳されていることと言ってもいいが、そんなこと意に介することはないと思っているのだ。

 だから英文のタイトルは、「芸術家の世界」という意味に取れる。そう思うと、読んでみようと思う人が増えるのではないだろうか。この本は、出だしが漢文調でとっつきにくいので、読んでない人も多いと思う。最初だけ書いてみます。


 山路を登りながら、こう考えた。
 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。

 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。

 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、くつろげて、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世をのどかにし、人の心を豊かにするが故に尊とい。 


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[2016/02/06 18:35] | 美術の本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
世界でいちばんカラフル化進行
美しい街1

美しい街3


「木曽路はすべて山の中」ではないが「ヴェネチアの路地裏はボロボロ」である。
はがれた壁面から、不揃いの焼き煉瓦がのぞく。アンカーの黒い鉄の棒も、崩れそうな壁面に、不規則にへばりついている。これが普通のヴェネチアである。

 写真集「新・世界でいちばん美しい街、愛らしい村」を見ていて、改めてブラーノ島だけ、住宅がカラフルに塗られているのはなぜなのか不思議になった。共産中国の経済特区のように、実験的にやっていることなのだろうか。一応、漁に出ている主人が帰ってくるときに、自分の家が見つけやすいようにという理由はあるが、それならどうして他にこんな住宅街がないのか。ここだけなのか。

 ヨーロッパの美しい町や村の壁面は、個人で勝手に色をつけたり改築することは許されない。部屋の中を近代的にするのはかまはないが、壁面だけは古いまま残さなければならない。同一の様式と配色が強制される。しかしである。ブラーノ島は、まるで「隣近所と同じ色を塗ることを禁ず。なるべく派手に濡れ」という法律でもあるかのようだ。

 このエム・ディー・エヌから出ている「新・世界でいちばん美しい街、愛らしい村」であるが、「新」とついていることから分かるように「世界でいちばん美しい街、愛らしい村」の続編だ。以前借りた、その本をまた借りようと検索したら、「新」が出ていた。どちらもすばらしい写真が載っている。

 この「新」の表紙とトップがハイデルベルクである。それがまた非常にカラフルだ。こんなにきれいだったっけ。もっと古ぼけた街だったような気がする。先の大戦で崩れた街を、戦前のように復元して作ったはずだ。2004年に行ったときの写真を探してみた。やはり現実はこんなもんだ。古い石積みに黒っぽい柱、漆喰の壁。これでもずいぶん美しく写っていると思う。もっとどんよりとした印象が強い。

 やはり最近の絶景写真集は、キレイすぎる。
彩度を盛っているのではないか。
絵を描くにはいいのかもしれないけれど。


美しい街4

美しい街5

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[2015/11/05 16:59] | 美術の本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
美術の教科書
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 「美術の教科書」と書いたけど、美術史の本のことです。
斉藤薫さんや、小笠原 敬承斎さんの「美人の教科書」とは何の関係もありません。

 パックツアーで海外旅行など行くと、現地ガイドさんが、教会や美術館などに入り、ひどく専門的な用語を使い、ていねいに説明してくれる。が、しかし、そんな説明を聞いているよりも、見たり写真を撮るのにいそがしい。添乗員は、あとで見る時間は取るから、しっかり説明を聞いてほしいようなことを言うが、そんなことを真に受けてはいけない。主要な一部の説明をしただけで、さっさと名画の前を通り過ぎることも多いから、団体が止まって説明を受けている間に、うろうろして周辺を見回るのだ。

 そういうわけで、あらかじめ予習はしておくとしても、帰ってきてから本で確認すると目から鱗の発見があることもある。(ガイドの言うことを聞かないせいもある)そうそう、現地ガイドの言葉を、日本人添乗員が訳すのだが、時間がかかる上に、信頼できない。知らない言葉が含まれているせいか、明らかに間違っていたり、はしょって簡単に言い切ってしまったりして、まじめに聴いているとバカバカしくなってくるのだ。

 いま思い出したのだが、かつて愛読していた美術の本があった。どういうわけか美術の歴史の本は、英語の本を3冊も持っている。もちろん、まだ読んでいない。愛読していたという日本語の本はH・W・ジャンソンの「美術の歴史」という本だ。これは、図書館などにおいてある、豪華2分冊の大「美術の歴史」の廉価ハイライト版みたいな本で、簡潔にして、わかりやすい。(今はどうか知らないがかつての)山川の日本史みたいなもんだ。

原題は「A Basic History of Art」である。うちにあるのは1980年出版のもの。
西洋美術の歴史
 美術史の権威ジャンソン父子の世界的ベストセラー。カラー219点、白黒300点をオフセット印刷、アート紙で再現。圧倒的ヴォリュームの本を低価格で提供する。古代から現代までの通史で、建築や写真芸術まで幅広く目配りし、各時代の概説や、地図、年表など親切な編集。翻訳には大阪大学名誉教授木村重信、大阪大学助教授藤田治彦があたった。推薦者は美術史の高階秀爾、建築の安藤忠雄、版画の山本容子の各氏。

 比較的最近のものではシスター・ウェンディー・ベケットの
「The Story Of Painting」である。これはロンドンで買ってきた英文だ。図書館で日本語版は何度も借りてきたことがある。英文のタイトルからして「絵画の歴史」というタイトルだろうと検索したがなかなか出てこない。こんな日本版タイトルがついているとは。
シスター・ウェンディの名画物語―はじめて出会う西洋絵画史
【ウェンディ・ベケット】
教育に従事する修道女が構成するノートルダム修道会に所属している。オックスフォード大学のセント・アンズ・カレッジで英語を専攻し、主席で卒業・南アフリカで教職についた後、1970年に帰国し、ノーフォーク州のカーミライト修道院で修道生活に入り、今日にいたっている。生来の美術愛好家であるウェンディ・ベケットは、1980年に本格的に美術を学び始めた。その後、絵画に関する知識と洞察力は広く評価されるにいたり、現在はBBCテレビの人気アート・シリーズ「シスター・ウェンディのオデッセイ」および「シスター・ウェンディのグランド・ツアー」の司会者としてもよく知られている。多数の雑誌に寄稿しているほか、『現代女流アーティスト』および『美術と宗教者』を含む優れた著書がある。

 問題はこの25ポンドもした英文の「The Story Of Painting」である。内容は大まかに知っていることなので、何とか読めるのではないかと思って、英語力もアップするに間違いないし、読み始めることを決意したのである。せめて夏休み期間中ぐらいは。

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[2015/09/01 17:08] | 美術の本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
夢の途中
 睡眠中の夢では、続きを見たりすることはないだろうけれど、小説家は夢を見はじめたら、毎日その続きを見ているようなものだと言っている。そもそも夢を見ないという人や、確かに見たのだが内容をほとんど覚えていないという人もいる。実際に夢の続きを見るということは、ほとんどないことなのだろうか。

 私の場合、起きがけの夢は、わりと長時間覚えていて、次に寝るときに思い返したりする。悪夢はすぐに忘れようとするので、忘れにくいのは、楽しい夢だ。こんなことが起こったけれど、もう一度会えるのだろうか、途中で終わったけれどこの先はどうなるのだろうか、と反芻していると、まんまと同じ状況の延長の夢を見ることがある。たいていその場合は、夢にありがちな突拍子もないものではなくて、現実に近い状況のお話である。さすがに三回目はないけれど。

 ということで再度、村上春樹「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」から、創作活動に参考になったり、なんにもならなかったりする部分を。

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 フィクションを書くのは、夢を見るのと同じです。夢を見るときに体験することが、そこで同じように行われます。意図してストーリー・ラインを改変することはできません。ただそこにあるものを、そのまま体験していくしかありません。夢を見たいと思っても、我々には眠る必要はありません。我々は意図的に、好きなだけ夢を長く見続けることができます。今日の夢の続きを明日、明後日と継続して見ることもできる。これは素晴らしい体験ではあるけれど、そこには危険性もあります。

 もし悪夢を見れば、あなたは悲鳴を上げて目覚めます。でも書いているときにはそうはいきません。目覚めながら見ている夢の中では、我々はその悪夢を、そのまま耐えなくてはなりません。ストーリー・ラインは自立したものであり、我々には勝手にそれを変更することはできないからです。夢が進行するままを、眺め続けなくてはなりません。

 少年について書くことは、素晴らしいことでした。僕自身が一五歳だった日々に戻ることができたんです。作家であることのすばらしさですよ。本気で願うなら、誰にでもなることができるんです。もし一五歳の時に感じていたことを、僕自身が本当に経験できたなら、読者もまた同じ経験をし、この感情を共有することができる。それは、物語からの最高の贈り物です。僕が生きるのをそれは助けてくれます。僕らの存在はときにあまりにも孤立していますが、物語があれば、もう一人ではありません。

 そうした場面は、先ほどお話しした隠れ扉を、読者が自分で開くことを可能にしてくれるからです。僕は読者の精神を揺さぶり、ふるわせることで、読者自身の秘密の部分にかかった覆いをとりのぞきたい。それでこそ、読者と僕のあいだに、何かが起きるんです。
 
 百のうち九十までは、自分で実際に経験したことのないことです。僕自身の実際の人生は、かなり退屈で、物静かなものです。しかし、どのようなささやかな、日常的なことからでも、大きな、深いドラマを引き出していくのが、作家の仕事であると思います。『人を観察するのは好きだけど、判断を下すのは避ける』というのも、作家の性向の一つです。

 しかしまだその時期ではないですね。もっと時間をおく必要があります。小説というのは、インテイクしたものを全部出しちゃいけないですよね。取り込んだものの中からいちばん大事な部分だけ抽出して使うというか、またある場合にはそのすべてを抱え込んで、飲み込んで、それとはまったく違ったかたちでもって書くとか、そういう我慢がすごく大事な要素になります。

 だから僕は、小説家の作業にとっていちばん大事なのは、待つことじゃないかと思うんです。何を書くべきかというより、むしろ何を書かないでいるべきか。書く時期が問題なんじゃなくて、書かない時期が問題なんじゃないかと。小説を書いていない時間に、自分がどれだけのものを小説的に、自分の体内に詰め込んでいけるということが、結果的にすごく大きな意味を持ってきますよね。

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[2015/08/09 18:15] | 美術の本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
夢を見るために
 山にこもっていると、あまりやることがない。はたして組織に属していている人に、以下のことがピンとくるのかどうか不安がある。それでもインタビュー集である「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」から。

 私には村上春樹的生き方は、理想的と思われるが、どうやらうらやましがられてはいないと感じているようだ。会社で昇進した方がうらやましいのだろうか。どっちにしても本人の希望とは関係なく、人から求められる方向に沿った生き方しか選びようがないと思っているのだけれど。

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 僕自身、大学を出てからずっと、どこにも属さず、個人として生きてきました。就職もしなかったし、どのような組織にも属さなかった。日本社会でそうやって生きていくというのは、決して簡単なことではありません。どんな会社に勤めていて、どんな組織に属しているかで、人は評価されるところがあるからです。一般の日本人にとって、それはとても大きな意味を持つ問題です。

 いや、誰も僕のことをうらやましがったりはしません。多くの人々はそういう生活をずっと長いあいだ、当然のこととして送ってきた。実際それ以外の生き方を選びようもなくなっている。

 天才的な作家っていますよね。何も考えないでもどんどん着想がわいてきて、すらすら書けちゃう人。二十歳くらいでデビューする人というのは、たいていそうです。

 僕は決して選ばれた人間でもないし、また特別な天才でもありません。ごらんのようにふつうの人間です。ただある種のドアを開けることができ、その中に入って、暗闇の中に身を置いて、また帰ってこられるという特殊な技術がたまたま具わっていたということだと思います。そしてもちろんその技術を、歳月をかけて大事に磨いてきたのです。

 僕は、自分の中にも底の方で物語が湧いてくるんだということを、たまたま偶然見つけた人間だから、その幸運に対して感謝する気持ちがすごくあるんです。もしかしたら見つからないまま、ごくふつうの人間として一生を終えていたかもしれないわけですからね。
 
 そのために大事なのは、きちんと底まで行って物語を汲んでくることで、物語を頭の中で作るようなことはしない。最初からプロットを組んだりもしないし、書きたくないときは書かない。僕の場合、物語はつねに自発的でなくてはならないんです。

 もし物語の結末がわかっているなら、わざわざ書くには及びません。僕が知りたいのはまさに、あとにつづくことであり、これから起こる出来事なんですから。

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[2015/08/04 19:23] | 美術の本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
「イタリアの最も美しい村」全踏破の旅
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 ここ数年、大きな本屋に行くと、「世界の絶景なんとか」「なんとかの美しい村」というような写真集がやたらと目につくようになった。その中でも、驚いてしまった写真集だ。

 ヴェネチアとかピサのような大都市が載っていないのはもちろんなのだが、ポジターノやポルトフィーノ、リオ・マッジョーレやソレント、タオルミーナといった、もはや有名なところも載っていない。ほとんどが、聞いたことのない知らない村である。それが230を超える数が載っている。すべて回るのに著者も4年以上かかったそうだ。

 ちょっとした欠点は、サイズが小さいのに、分厚いということ。単行本ぐらいのサイズのために、カットが小さい。それなのに450ページも写真が満載だ。絵画グループの皆さんに見せたら、最初のうちは感嘆していたのだが、すべて見切るのに時間がかかりすぎて、最後まで見ると疲れて、どれが良かったのか決められない、再度見つけられないということになった。もうちょっと大判で、数冊に分かれている方がいいのではないかと思う。

 イタリアだけは、何度も行きたい。奈良・京都のように、本当は毎年行きたい。京都が、観光地人気No.1になったせいか、昨年あたりから急に、周辺地域のホテルが値上げして取りにくくなった。(アジア人観光客のせいだと思われる)イタリアに人気が集中しませんように。今年の夏は、この本でだいぶ癒される。



「イタリアの最も美しい村」全踏破の旅

「フランスの美しい村」 全踏破の旅


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[2015/07/26 18:29] | 美術の本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
五千歩くらいなら
吉川うしな時


久米宏と壇密が司会をしている図書番組に千住博が出てきて面白かった。
オークションに作品が出るということは、誰かが手放したということで、作家にとっては噴飯ものだそうだ。
弟は作曲家の千住明。何年か前、日曜美術館の司会を担当していました。
妹はヴァイオリニストの千住真理子。こっちは以前から有名です。
という偉大なる千住兄弟の兄です。千原兄弟の兄ではありません。
いちおう日本画家です。本もたくさん出しています。

『わたしが芸術について語るなら 千住博』より歩くことと才能。

 自分の体験、つまりリアリティがどれほど大切か。実際に出来ることならば、本当に体を動かしてやらないとだめなんです。でも、私たちのような年齢になってくると、みんな移動するのに車に乗るのです。

往復も全部車で、そうすると一日千歩くらいしか歩かない。人間は一日一万歩くらい歩かないと体の調子がくるうんですね。内臓も骨もおかしくなってくる。姿勢もおかしくなって、肺もおかしくなってくる。歩かないことで、どんどん体がおかしくなってくる。それで、どうしようもなくて薬ができてくる。

 これは人間がゆるやかに破滅に向かっていることだと気づくはずです。歩かなくなると歩けなくなる。これは、すべてのことにあてはまると思います。スポーツだって、人間関係だってそうかもしれない。

 でも、冬に寒くて暖房がほしいなら、最低限そこまでは良いじゃないか。顔を洗うときにお湯が出てほしいなら、そこまではいいだろう、と。

 そんなことをやったら、生きている実感も薄くなっていって、いろいろわからなくなってくるでしょう。動物的直感もダメになってしまう。生きている実感が弱まるということは、死に対する感覚も弱まっているのです。


 「自分で自分を知る」、これがとても大切です。
才能というのは、他のことには才能がないということがわかること。
まずは、他には才能がないことが大切なんです。
いつしかこの人には才能があったな、と思われるのは、
30年くらいたったあとの結果論です。


わたしが芸術について語るなら
わたしが芸術について語るなら―未来のおとなへ語る
[2014/07/23 17:53] | 美術の本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
走る走る、村上春樹
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 村上春樹のエッセイは非常に面白い。私にとっては小説より面白い。前回の「雑文集」でもそうだが、今回の「走ることについて語るときに僕の語ること」でも、他の主題の中に混じって、作家としての姿勢について書いてある。結果として、他の仕事をしている人にも役に立つ内容だ。

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走ることについて語るときに僕の語ること 村上春樹


 長編小説を書くという作業は、基本的には肉体労働であると僕は認識している。文章を書くこと自体はたぶん頭脳労働だ。しかし一冊のまとまった本を書き上げることは、むしろ肉体労働に近い。もちろん本を書くために、何か重いものを持ち上げたり、速く走ったり、高く飛んだりする必要はない。だから世間の多くの人々は見かけだけを見て、作家の仕事を静かな知的書斎労働だと見なしているようだ。

 しかし実際にやってみれば、小説を書くというのがそんな穏やかな仕事でないことが、すぐにおわかりいただけるはずだ。机の前に座って、神経をレーザービームのように一点に集中し、無の地平から想像力を立ち上げ、物語を生み出し、正しい言葉をひとつひとつ選び取り、すべての流れをあるべき位置に保ち続ける-そのような作業は、一般に考えられているよりも遙かに大量のエネルギーを、長期にわたって必要とする。その作業は作家に対して、肉体能力をまんべんなく行使することを-多くの場合酷使することを-求めてくる。

 僕自身について語るなら、僕は小説を書くことについての多くを、道路を毎日走ることから学んできた。どの程度、どこまで自分を厳しく追い込んでいけばいいのか?どれくらいの休養が正当であって、どこからが休みすぎになるのか。どこまでが妥当な一貫性であって、どこからが偏狭さになるのか?


 職業的にものを書く人間の多くが、おそらくそうであるように、僕は書きながらものを考える。考えたことを文章にするのではなく、文章を作りながらものを考える。書くという作業を通して思考を形成していく。書き直すことによって、思索を深めていく。

 芸術行為とは、そものもの成り立ちからして、不健全な、反社会的要素を内包したものなのだ。僕はそれを進んで認める。だからこそ作家の中には、実生活そのもののレベルから退廃的になり、あるいは反社会的な衣装をまとう人々が少なくない。

 しかし僕は思うのだが、息長く職業的に小説を書き続けていこうと望むなら、我々はそのような危険な(ある場合には命取りにもなる)体内の毒素に対応できる、自前の免疫システムを作り上げなくてはならない。

 そしてこの自己免疫システムを作り上げ、長期にわたって維持していくためには、生半可ではないエネルギーが必要になる。基礎体力の強化は、より大柄な創造に向かうためには欠くことのできないものごとのひとつだと考えているし、それはやるだけの価値のあることだ。真に不健康なものを扱うためには、人はできるだけ健康でなくてはならない。


走ることについて語るときに僕の語ること

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[2012/12/19 16:51] | 美術の本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
絵画を見るということ 山岸健
絵画山岸
らくだを見るということ チュニジア2010

絵画山岸2



 「絵画」は一瞬のうちに視力を通してものの本質を君に示す。と言ったのはレオナルド・ダ・ビンチである。明らかに絵画は、見ることと視力のドラマである。絵を描くこと、絵を見ること、こうしたことは人間と世界が、様々な現実が姿を現すこと、いろいろなものが見えてくることなのである。 絵画とは延び広がりゆく視線なのであり、目と手の浮上、身体と人間の現前なのである。すべての芸術は、目という鏡、に基づいている。

 絵画とは恐るべきほどに深いまなざしだ。火を噴くばかりに激しい見る行為だということが、ベラスケスの「ラス・メニーナス」を見ているときに体験される。オルテガは、「アルタミーラの画家は描くことによって魔術を行っていたのであり、ジョットーはフレスコ画を描きながら祈り、ベラスケスは絵画そのものを描いたのである」と述べている。それは目で見ることができる人間の叫びなのだ。


 画家は限りなく広く深く見るのである。眺められる風景の背後にまでまわりこむような状態で風景に近づき、風景の基底へと降りていき、自分自身と風景を一体化させる。だが、やがて独自の仕方で風景と距離をとるように努めて、オリジナルな表現のために努力を傾けるのである。見ること描くことは、そのように深く生きることであり、世界をこの上なく深く広く体験することなのである。

 セザンヌは色彩に目を見開いた人である。コンポジションにも並々ならぬ注意が向けられていたが、色彩的な理論に従うことが彼にとっては大切だったのである。セザンヌは頭脳の論理への服従を拒否している。彼はいつも「目の論理」と言う。文学的絵画はセザンヌの好むところではなかった。

 絵を見るとき、誰もが自分自身の身辺や日常生活の場面やさまざまな風景などを、全く新しい視点から、広々と深々と体験することになるのである。絵画体験は人生を生きる喜びに通じているのではないだろうか。
 絵を見るとき、あらためて、〈見ること〉を学ばない人はいないだろう。一点の絵は人々の身辺を明るく照らし出してくれる独自の光なのである。

 スケッチブックやノートに描かれた線、彩色された色の広がり、形の誕生-それらは描く人にとってはかけがえのない感動なのである。描くことは生きていることの、手応え十分な確認なのである。端的にいえば、絵画とは人間の自由なのだ。絵画ほど人々に光と彩りの中で自由を深く体験させてくれる人間の営みはないだろう。

 ひとたび絵画に魅せられたならば、おそらく絵画からは離れなれない。絵の魅力には尽きるところがない。絵を描く楽しみを覚えた人にとっては、描くことは生き甲斐になるのである。
 描くとき、ものが見えてくる。今まで気づかなかったものに気づく。すべてのものが生き生きとした表情を見せ始める。生活環境の膨らみが増し、空間も時間も、濃密に体験されるようになる。
 描くとき、まるで自分自身がよみがえるような思いがする。生きているということがありありと体験されるのである。私にとって写真は大切なものだが、スケッチブックに描かれた絵の迫力にははるかに及ばない。

絵は人間にとって救いなのである。人々は絵画によって明るいところに導かれたのであり、絵画によって進むべき道筋が明るく照らし出されたのである。絵を描くことは人生を深く生きることだ。

 タイトルは作品の添え物ではない。タイトルは、絵の指針であり、注目さるべき顔なのだ。どのようなタイトルであろうと、タイトルには画家のアイデンティティが息吹いているのである。

 セザンヌはモネを、太陽が沈むとき、それをさまざまな透明さに至るところまで追ってゆける唯一の目、唯一の手と呼んだが、絵画とは、いずれも唯一の目、唯一の手なのである。
 人間と時間と空間を出来るだけ具体的に豊かな表情で体験することは、人生の旅人である私たちにとってまことに大切なことだと思う。


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[2012/10/12 18:45] | 美術の本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
「油絵を描く」 津田やよい
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 いい油絵の本が出た。
 この本は、全くの初心者用の技法書ではない。グラフィック社のビギナーズ・ノートというシリーズの一冊であるが、とても絵を始めて数年では、理解できない内容だと思われる。

油絵を描く ビギナーズ・ノート 津田やよい
 第1章「油絵の基本技法をマスターする」
 第2章「画家のアトリエ」

 本のいちばん最後に、申しわけ程度に、油絵の具やオイル、キャンバスについての情報が載っている。いろいろな技法が出ているが、一作例見ただけで、そんなにマスターできるわけもない。「画家のアトリエ」では、津田やよいさん以外の4人の作品も出ていて、それなりに楽しめる。

 もうちょっと第1章の基本の作例に集中してくれるとありがたいと思う。しかし、プロセス解説と写真のわかりやすいこと、作品の魅力的なことは、類書で見たことのない見事さだ。このまま、手順を踏んでマネをしても、勉強になるに違いない。




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[2012/05/18 22:00] | 美術の本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
ベルト・モリゾ ある女性画家の生きた近代 坂上桂子
坂上モリゾ




 坂上桂子『ベルト・モリゾ ある女性作家の生きた近代』小学館を読みました。

  「ベルト・モリゾ」は、フェルメールと並んでというと大げさすぎるが、近年注目を集めるようになったらしい。らしいというのは、私はずっと前から気にしていたからだ。もちろんマネの弟子で、肖像で知っていた。

1992年 パリ マルモッタン美術館で「印象派女流画家3人展」を見て感動したのだが、恐らく翌年、1993年頃 新宿伊勢丹でほぼ同じ企画の、「モリゾ、ゴンザレス、カサット印象派女流画家3人展」をやったが、作品が少なく面白いモノではなかった。

その後2004年 東京都美術館「マルモッタン美術館展」モリゾの作品40点。
2007 損保ジャパン東郷青児美術館で「ベルト・モリゾ展」とあった。

 その「印象派女流画家3人展」を検索すると、私のブログしか出てこなかったりして、要するに、これらの画家については、ひどく情報が少ないのです。
ベルト・モリゾ(1841~1895)、
メリア・カサット(1844~1926)、
エヴァ・ゴンザレス(1849~1883)ですな。

 モリゾはマネの2番弟子ですが、1番弟子のエヴァ・ゴンザレスに相当ヤキモチを焼いていたようです。そのせいであるのかどうなのか、マネの弟と結婚します。この本では、このマネとゴンザレスとモリゾの微妙な関係については、触れられていません。カサットとは親しくしていたらしく、いっしょに日本画展を見に行った話など載っています。

 著者は、印象派の中で、ベルト・モリゾが不当に低く評価されていると書いている。その通りなのだろうけど、エヴァ・ゴンザレスの方が、もっと不当な扱いを受けていると感じているので、持ち上げたくなります。エヴァは若くして亡くなったので、もし長生きしていれば、3人の中で最も有名になっていたかもしれません。


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☆ ベルト・モリゾの作品


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☆ エヴァ・ゴンザレスの作品


ベルト・モリゾ―ある女性画家の生きた近代 (小学館ヴィジュアル選書)
西洋絵画の巨匠 モリゾ (西洋絵画の巨匠 6)


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[2012/03/21 18:20] | 美術の本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
レオナルドの真作 美しき姫君
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年末にBS朝日でも放映された、レオナルドの真作のお話です。
『美しき姫君 発見されたダ・ヴィンチの真作 マーティン・ケンプ』より。


 わたしたちの前に姿を現わしたのは、十九世紀の精巧な模倣品ではなく〝本物″だった。何度もこの目で検分し、科学分析を重ねた結果、わたしは、『美しき姫君』と仮に名付けたこの肖像画がレオナルド・ダ・ヴインチの傑作であることを、微塵の疑いもなく確信するに至った。本書は、この世紀の大発見を初めて包括的に検証した一冊となる。

 今まで知られなかったダ・ヴインチの本格的な作品が日の目を見るというのは、希有の上にも希有な出来事だ。この五十年間に発見されたのは、どちらかといえば軽い作品が数点。紛い物の大作ならいくらでもあったし、その中には第一級の贋作と呼べるものも交じっていた。白眉は一九六七年、マドリッドのスペイン国立図書館で、長らく所在不明だった稿本が見つかったことだろう。

 だが、この 『美しき姫君』 ほどの絵は今まで一度も登場しなかった。単に〝絵″と呼ぶのが申し訳ないくらいに美しく整えられたその色彩と色調は、色チョークとペン、茶色のインクの絶妙なバランスが紡ぎ出したものだ。ヴュラム(子牛皮紙)の上に広がる、巧赦をきわめた賓沢品最高レベルの色彩、色調、構図を備えた、チョークによる一大名画だ。絵画としての完成度、科学的データ、時代背景。さまざまな要素がすべて、この作品は真作だと告げている。


何が証明されたのか?
 ここまで、われわれはあらゆる角度から調査を行なつてきた。とはいえ、結局のところ、この子牛皮紙に色チョークで措かれた横顔の女性像は、ほんとうにレオナルド・ダ・ヴインチが一四九〇年代半ばに描いた肖像画なのか? ほんとうにモデルはビアンカ・スフォルツァなのか? 決定打となるような証拠はひとつも見つかっていない。

 一方、ルーヴル美術館の『モナ・リザ』が、ダ・ヴインチが措いたリザ・ゲラルディーニ(フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻)の肖像であり、一五〇三年の着手から長い年月を経て完成したという通説にも、証拠はない。本物の 『モナ・リザ』だと主張される絵が、少なくとももう一枚存在するし、モデルの正体についてもさまざまな説が出ては消えてきた。

 そんなモナ・リザ・デル・ジョコンド″像が、ダ・ヴインチの自筆作品として認められるに至ったのは、いくつもの情報が結びつけられた結果であり、何よりもこの絵が、ダ・ヴインチの活動の全体像をとらえるうえで大きな手がかりになつたためだ。

 いくつもの情報を結びつけ、蓄積した結果、われわれは 『美しき姫君』 の作者がダ・ヴインチだという結論を導き出した。技法と描画材の特徴、専門的調査で得られた結果のそれぞれが、この絵はダ・ヴインチ作だと主張している。

 描画材と土台に見られる破損と修復の跡は、まさしく五百年余を経た絵画のそれだ。肉眼で見える表面も、その下の層も、大部分の描画は左手によるものだった。画面に残されていた指紋と掌紋も、ダ・ヴインチ特有の画法をかんがみたうえで注目された。事実、皮紙の左端に検出された指紋は、ダ・ヴインチ自身の手が子牛皮紙に触れたという強力な(決定的ではないにせよ)証拠と見なせる。





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[2011/02/10 17:32] | 美術の本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
悲しいときー 菩薩が飛んでくる
平等s001



 どうも今月は、まともに本を読んでいません。お勧めするような本がないので、お勧めしたい菩薩像をひとつか二つ。毎年、奈良・京都などの神社仏閣をまわっています。建物や石垣には興味があるのですが、有名な仏像にはそれほど惹かれません。
仏像に目がない。といいますか、違いのわからない男なんです。

 そんな私でも、階段を踏み外したようにガクッと衝撃を受けたのが、平等院博物館にある「雲中供養菩薩象」シリーズです。平等院鳳凰堂の中堂内部、本尊阿弥陀如来座像の後ろ、というか回りの壁一面にビッシリと飛んでいます。飛天なんでしょうか。

 それも、なんか変なものを手に持って、小さい雲の上に乗っています。琴、笛、太鼓とか何やら楽器みたいなものです。いちおう立体的彫刻なんですが、壁に貼り付けるようになっているためか、側面から見ると、正面の半分くらいの幅しかありません。

 きっとこの人たちが、日本経済を支えているにちがいない。
どや顔で、印籠のように、こんなものを差し出されても。

上から、バッシを持っている南六号、拍板(ハクバン)を持っている南一号、南二十三号。
「国宝 平等院展」という本より。


平等s003
平等s002
平等s004

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[2010/08/30 17:24] | 美術の本 | トラックバック(0) | コメント(4) | page top
ざっくり!じゃない美術史をこそ望む
斎藤美術



 おすすめの本ではなくて、普通なら素通りする本ですが、『齋藤孝のざっくり!美術史』です。以前に採り上げた、大橋巨泉さんの美術史本のように、十分な教養の蓄積に裏打ちされた本ではありません。頭のいい人が書いた本です。

 この本を読んで、美術史がわかったような気になってもらっても困ります。しかし、勉強のできる、かつ説得力のある文章を書く名人が、本を作るとこうなるというお手本、と言えます。一般的には、文章とは、このように書かなければいけないのでしょう。


 ヤンについて…、良いことを書いていますので、以下に引用。



 たとえば、油絵の技法を大成させたことで知られる初期フランドル派の画家ヤン・ファン・エイクは、そういう意味で恐ろしくうまい画家です。彼の作品は、それを措いた人間
の意志と技量、そして、その心技体のすべてが偶然ではなく最高度に緊密に積み上げられ
て初めてできる絵であることを感じさせます。

 そうした人間のある種の集中力の極限を見たとき、優れた画家はここまで見るのか、こ
こまで繊細に映し出すのか、と驚かされるのです。

 近代以降、絵画はうまい、ヘタは問題ではないと、開き直ってしまった時代が続いてきていますが、私はそれが近代芸術から人々の心を遠ざけてしまっている一つの原因になつていると思うのです。もはやうまい、下手は関係ないなら、どうやって絵を評価したらいいのかよくわからない、という感じになつてしまっているからです。

 そうしたなか、こういう超絶的にうまい絵を見ると落ち着きます。
 このうまさは、どう逆立ちしても自分には描けないということが明らかだからです。

 そんなことを思い出すほど、ヤン・ファン・エイクの絵はすごい。彼の絵は、どこをどれだけ拡大しても堪えられるすごさを持っている。これは本当に「奇跡の技」といっていいものです。

 たった一部分でさえも、何回生まれ変わっても無理だと思わせるほどの力量。「これこそが画家の才能だというのなら、この高みにいったい誰が行きつけるのだろう……」そう思わせるほどのうまさを持った画家、それがヤン・ファン・エイクです。






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[2010/03/24 12:43] | 美術の本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
永沢まことのとっておきスケッチ上達術
永沢まこと

☆永沢まことのとっておきスケッチ上達術 


 先日、水彩画のお勧め本「水彩画プロの裏ワザ 奥津 国道 」をとりあげました。これが古典的・正統派とするならば、今回の永沢まことさんの本は、実践的・庶民派とでも言えるものです。芸術的というよりも、どちらかというと絵手紙に近い親しみやすい水彩画です。

 しかし、どちらも水彩画の技法うんぬんよりも、まず線で描くデッサン力が勝負であることは変わりません。

以下、本の中から。

「いきなりペンで描く」というこれから述べる方法は、大ざっぱに言って次の3つの原則によって組み立てられています。

1、何を描くときでも、「実物」を見て描く。
2、何を描くときでも、「線」でカタチをとること。
3、色は、「線」を引き立てるように塗ること。

すべてはあなたの観察力から始まる。
線はあなた自身です。
構図よさようなら。これからは一点突破です。
30枚描き続けると、何かが起きる。うまくなるコツは数です。



  

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[2010/03/12 22:26] | 美術の本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
モナ・リザの罠 西岡文彦
モナリザ罠


 ルーブル美術館にあるレオナルド作の名画「モナリザ」ですが「ジョコンダ」とも呼ばれています。(ダ・ビンチと言いたくないことは、以前に書いた。)何となく疑問に思っていたのですが、その点について書いてありました。

 そもそも日本でも、明治44年にルーブル美術館から盗まれた事件を報じた記事では『ラ・ジオコンドの紛失』というタイトルが付けられていたそうで、いつの間にか「モナリザ」に変わったが、これは、英語圏の、つまりアメリカの影響のようだ。ヴェネチアがベニスと一般的に言われているのと一緒。

『モナ・リザの罠 西岡文彦』より
『モナ・リザ』の「モナ」は、山本モナではなく、モンナ(夫人)つまり、「リザ夫人」という意味なのですが、フランスでは、彼女の夫となったフランチェスコ・デル・ジョコンドの苗字を女性形にした『ラ・ジョコンダ』つまり「ジョコンド夫人」という名前で呼ばれています。

 この違いは、ヨーロッパでの女性の呼び方の習慣から生じたもので、英語やドイツ語を使う地域では、ファーストネームに敬称を付けて呼ぶことが多いのに対して、イタリア語やフランス語を使う地域では苗字を女性形にして呼ぶことが多いことからきています。日本もフランスと同じで、一般の女性の呼び方では苗字が優先されます。既婚女性を、苗字でなく名前で呼ぶのは、よほど親密な関係の相手に限られるように思います。

 ルーブル美術館の表示も「La Gioconda」となっています。

 おまけに名前で呼ぶにしても、本家と英語圏では違います。イタリアで「モナMona」というのは女性器をさすので、この場合「モンナMonna」と言うのです。日本語で近くいうと「モンナ・リーザ」です。これが英語になると、無神経に「モナリザ」となるわけです。

 したがって、ダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチ・コード」は、名画を読み解く、言葉を読み解く点で、フランス人のルーブル美術館長などが使うはずのない言葉で謎解きをおこなっているなどの矛盾点があります。




 

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[2010/03/10 21:35] | 美術の本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
水彩画のおすすめ本  水彩画プロの裏ワザ
水彩画



 少し前に、中級者ぐらいの油絵の参考書を採り上げましたが、水彩画でいい本はないかというお尋ねがありました。むしろ、油絵よりもおすすめの本があります。

 この著者は、もともと油絵を描いていた人です。そして、10年ほど前から水彩画を始めたので、本人にとっても、水彩画の技法が新鮮なのでしょう。芸術的、アバウトな水彩画ではなく、きっちりとしたデッサンを元に彩色するタイプの水彩画です。かつての小松崎邦彦さんの『油絵入門』のような、丁寧で読みやすい入門本です。


水彩画プロの裏ワザ (ザ・ニュー・フィフティーズ)
水彩画プロの裏ワザ〈PART2〉 奥津 国道 (著)
  


その他、良さそうなものとして
日本の自然をリアルに描こう―あなたもできる細密描写


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[2010/01/27 15:49] | 美術の本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
油彩画 プロの裏ワザ 中西繁
油彩画

 ☆

 「油絵入門」に関する本としては、かつては、20年ほど前、NHKの講座で小松崎邦雄さんがやっていたもののテキストが最良だと思いますが、現在発売されていません。

 現在それに近い本を探しますと、この「油彩画 プロの裏ワザ 中西繁」「油彩画超入門 光と影を描く 中西繁」がいい線をいっていると思います。

 これらの本は、作者独自の作例を多用し、詳しい作品では、1点の油絵ができるまでの22ページを費やして解説しています。ただし、作者独自の厚塗りの描き方で、決してオーソドックスな絵ではありません。ある程度経験のある方(3年ぐらい)が読むと、自分の作品の参考となる部分があるでしょう。

 ただし、全くの初心者に、この本は向きません。絵は個人の感性の問題だから、自由に描けばいいという考え方もありますが、私は、芸術も英語を学ぶ程度には、基本からの積み上げが必要だと考えています。本来、デッサンがある程度できるようになってから、油絵にはいるべきでしょう。

そういう意味で、全くの初心者には、「気軽にはじめる油絵7日間 (みみずく・ビギナーシリーズ)」がいいでしょう。当然ですが、絵のうまい下手とは別に、油絵の技術や、個々の絵の具の性質など、覚えなければいけないことはたくさんあります。



     
   

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[2010/01/08 21:51] | 美術の本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
何でも描けます、何でも描きます。
 NHKでおなじみ『迷宮美術館』(現在は木曜日の午後3時頃放映)の本です。

『クイズ迷宮美術館 アートエンターテインメント《スペシャル版》』

 通常の放送に近い形での本がすでに、第1集から第5集まで出ていますが、この本は番組で取り上げられたクイズのみをぎっしり詰め込んでいます。

 クイズとしては、難しすぎたり、馬鹿馬鹿しかったりするものもありますが、それを通して美術の知識を深めることは出来ると思います。コンナコト知ってどうする?という、思わず笑ってしまうエピソードもあります。

 たとえばこんな問題が載っています。


迷宮美2

■Q96、あんたのせいよ、責任とって! 。
「オフィーリア」完成後、ミレイはモデルをした女性に訴えられます。
なぜ、ミレイを訴えたのでしょう?(3沢です)

1、水風呂に入って風邪をひいたから。
2、横になりっぱなしで太ったから。
3、ミレイとの子供が出来たから。



迷宮美1

■Q74、何でも描けます、何でも描きます。
ギルランダイオ 「洗礼者聖ヨハネの生涯」1486年にフィレンツェ サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂に描かれたフレスコ画です。ミケランジェロが絵を師事した画家です。
依頼主との契約書には「人物や建物の他、画家は城、都市、、山、丘、石、その他、ありとあらゆる○○を描かなければならない」と記されていました。○○に入るのは?

1、聖人
2、料理
3、動物


 こんなのわかりますか?
ミレイのなんて、どれでも勝手にしてくれ!、てな気になりますが、不満を持っても記憶に残るものです。
答えは後で出します。





  

  


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[2009/12/19 18:51] | 美術の本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
兄小林秀雄との対話     高見沢潤子
兄小林



美について

 絵の美しさ、音楽の美しさがわかるようになるには、何も考えずに、できるだけたくさんのいいものを、見たり、きいたりしなくちゃいけないんだ。まず目を慣らすことが第一だからね。くどくどとその絵の説明や解釈をきいて頭を働かすより、目から直接にくる直感的なものを大切にしなけりゃいけないからだ。美というものは、感じるものだ。だから、いくら美についての知識を持っていたってだめだ。

美しいものを感じる能力は、やっかいなことに、これをたえず養い、育てようとしなければ、すぐ衰えてしまうんだ。そのためには、しじゅう、怠ることなく、立派な芸術を見つづけることだな。まず無条件に感動することだ。見ることもきくことも、考えることと同じように、むづかしい。絵や音楽がわかるという事は、その沈黙にたえる経験をよく味わうことだ。立派な芸術は、正しく、豊かに感じることを、いつでも教えている。

 作者が、作中の人物にいのちをあたえるものは、その人物に対する観察力じゃない。愛情とか、情緒とかいう精神の力なんだ。作者にそういう精神がなければ、作中の人物は生きてこやしない。ひとは、ひととともに生きるのだ、という根本の理念がなければならないんだ。
 

読書について

 人生はむずかしいものだから、人生についてまじめに考えようとすれば、むずかしくなるのはあたりまえだ。やさしくしようとすれば、ちがったことを書いてしまう。苦心に苦心して、くふうをこらして、選んだことばは一つしかないのだ。デカルトは、とにかく四度は読まなくちゃわからないし、読んだということにならない、といっている。

一流の作品をもっと読んでほしい。むずかしいからと諦めないで、しんぼうして読んでほしいんだ。一流の作品を選んで読むこと。いいものばかり見なれ、読みなれていると、悪いものがすぐわかるようになるんだ。一流の作品はみんな、例外なく、むずかしいものと知ることだ。一流作品というものは、成熟した人間の感情・思考の表現だから、なかなかわかりはしない。

ほんとうに一流の作品に影響されるということは、そのすばらしさに、ぐうの音も出ないほどにやっつけられることだ。文句なしにその作品の前にひれ伏してしまうことだ。

 それから一流の作家の作品を全部読むということもたいせつだね。一流作家は必ず全集が出ている。それを読むんだ。全集を読んでしまうと、そういう一流といわれるような人は、どんなにいろいろなことを試み、どんなにいろいろなことを考えていたかわかってくるよ。『トルストイ全集』を買って、半年ばかり何も読まず、それだけ読みなさい。実際に読んでみなけりゃ、どういう得があるか、決してわかるもんじゃないよ。
 
できない?なぜだい、そりゃ。「絶えず祈れ」って聖書にもあるじゃないか。そんなことはあたりまえのことだ。自分で何もかもできると思ったらまちがいだ。限りない力を持つ神に対して、祈って、力をあたえてもらうことは大切なことじゃないか。






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[2009/11/20 21:59] | 美術の本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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