日本のロック名盤
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日本のロック名盤ベスト100 川崎 大助 
という珍しい音楽の本です。

 前半が、ランキングとここのアルバムの解説。後半が日本のロック全歴史。アルバムの説明文では、もの足りないところや、選考に納得できない部分もあるが、後半のロック全歴史は、ほとんど歌謡曲まで含めたJ-pop音楽の歴史の俯瞰が見事だと思う。

 おいおい、これも入れるのかい!と思ったのは、以下のもの。
34位 矢野顕子『JAPANESE GIRL』
14位 荒井由実『ひこうき雲』
(それから、宇多田ヒカル『ファースト・ラヴ』、PUFFY『JET CD』も)
4位 イエロー・マジック・オーケストラ『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』
これもロックか。

1位. はっぴいえんど 「風待ろまん」71
2位. RCサクセション 「ラプソディー」80
3位. ザ・ブルーハーツ 「ザ・ブルーハーツ」87
5位 矢沢、7位 大瀧詠一 9位 サディスティック・ミカ・バンドである。

 何となく分からなくもないが、一般的には、それほど知名度がないと思う。大瀧詠一の『ロング・ヴァケイション』が売れたかな。特に、それならなんで吉田拓郎が入ってないのと思う。

 後半の解説文で、「こうした産業のほとんどすべてに影響を与え、隆盛に導いたスーパースターがフォーク歌手の吉田拓郎だった」「はっぴいえんど 「風待ろまん」は、吉田拓郎の『人間なんて』と、同じ年、同じ月だけではなくて、発売日まで一緒だった」吉田のアルバムには、加藤和彦、小原礼、木田高介、松任谷正隆、林立夫が参加しており、荒井由実のデビューアルバムにもつながる、てなことも書いてある。

 ついでに、はっぴいえんどでは、細野だけでなく、松本隆が松田聖子などでも有名な作詞家になる。吉田拓郎の2枚組アルバム『ローリング30』最初と最後の2曲が拓郎詞、以外の全歌詞を手がける。さらにその後、大瀧詠一の『ロング・ヴァケイション』の1曲以外の全歌詞を手がける。ジャケットを見ても、若すぎてどっちが松本かわからないけど。

 知らないアルバムがたくさん入っているのはいいとしても、けっこう偉大だと思うアルバムが入っていない。荒井由実は2枚目の『MISSLIM』の方が好きだし、井上陽水、吉田拓郎、加藤和彦やYMO三人のソロもない。最近のサカナクションもない。
これらはロックでもないのかい。



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[2015/11/11 19:08] | 音楽の本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
ドナルド・キーンとオペラ
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 オペラと源氏物語などの日本文学の大家であるドナルド・キーンさんが、日本に帰化したのを記念してか、ここ数年、NHKで4本も特集番組が放映された。源氏物語や奥の細道、三島由紀夫、川端康成の話は、他の人からは聞けないものだ。
今週見たのは「日本人ドナルド・キーン 90歳を生きる 私は日本文学の素晴らしさを伝えたい」と「ドナルド・キーン・瀬戸内寂聴 ニッポン不易流行」という番組だった。
なんとコタツに入って対談している。二人とも91歳だ。三島由紀夫が期待されながら、川端康成が受賞したノーベル文学賞の話。これがなかったら二人とも自殺しなかっただろうと言っている。

 それから若い頃のメトロポリタンオペラの思い出を語っていた。学生の頃は、最安席が1ドルで見ることが出来たそうだ。それでカルーソー、ポンセル、メルリ、マルテネッリなどの歌手で、ベルディ中後期のメト初演を見た。ワーグナーも黄金時代で、今でもCDで売っているが、メルヒオール、リスト、フラグスタート、ショールなどを何度も聴いたようだ。

 著書はたくさんある。しかし本屋で見つけることはむずかしい。
「ついさきの歌声は」 中央公論新社 (1981/01)
「わたしの好きなレコード」音盤風刺列伝 中公文庫 1987年発行
「音楽の出会いとよろこび」中公文庫 1992年発行

「ついさきの歌声は」などは30年前から、何十回と読んでいる。こんなにおもしろいオペラの本はない。しかし、売ってないので古本で探してくれ。

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[2014/03/22 17:02] | 音楽の本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
「草枕」変奏曲―夏目漱石とグレン・グールド
漱石グールド



 先日、「草枕」CD朗読をとりあげた。
その縁で、調べていたら、なんとあのピアニストのうちでももっともよく聴いているグレン・グールドが「草枕」を愛読していたということだった。

 それで『横田 庄一郎 (著)「草枕」変奏曲―夏目漱石とグレン・グールド』
を借りてきて早速読んでみたら、愛読どころではなかった。

 グールドが死んだときに、枕元に置いてあった本は、聖書と草枕だけだったそうだ。聖書は、彼の死後、父親が枕元においたもので、実のところ「草枕」だけだったらしい。
「草枕」の本は、英訳本、日本語本合わせて4冊も所有しており、知人に電話で全文を朗読して聞かせたり、自らのラジオ番組で、自ら短縮した文章を朗読したりもするという、とんでもない偏愛ぶりを示している。

 私は、とても本で読む気はなくて、朗読を聴くだけで、それもバラバラに聴くだけで満足している。今回、気をつけて聴いてみたら、那美さんに画工が小説の読み方を語っている部分がある。これがこの本の読み方を示したものといえる。

以下、二人の会話。
「じゃあ何が書いてあるんです」
「そうですね。実はわたしにも、よくわからないんです」。
「それでお勉強なの」
「勉強じゃありません。ただ机の上へ、こう開けて、開いたところをいい加減に読んでいるんです。小説なんかそうして読む方が面白いです」
「はじめから読んじゃ、どうして悪いでしょう」
「はじめから読まなけりゃならないとすると、しまいまで読まなけりゃならないわけになりましょう」
「妙な理屈だこと。しまいまで読んだっていいじゃありませんか」
「むろんわるくは、ありませんよ。筋を読む気なら、わたしだってそうします」
「筋を読まなけりゃ何を読むんです。筋の他に何か読むものがありますか」


「草枕」変奏曲―夏目漱石とグレン・グールド


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[2012/12/09 21:06] | 音楽の本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
ドナルド・キーン先生日本人になる
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 昨年10月16日に放送された「ドナルド・キーン先生日本人となる~その半生に込められた日本への思い~」と「果てしなく美しい日本 ドナルド・キーン×平野啓一郎スペシャル対談」を見直しました。

 ドナルド・キーンといえば以下のオペラの本をかつて何度も読みました。
「ついさきの歌声は」
「わたしの好きなレコード」音盤風刺列伝 中公文庫 1987年発行 
「音楽の出会いとよろこび」中公文庫 1992年発行 

 オペラ・音楽の本としては、吉田秀和さんの著作についでよく読んだと思います。その後、オペラの専門家かと思っていたキーンさんが、源氏物語についてお話ししているカセットテープを手に入れました。そこで日本文学の大家であると知るわけです。

 小林秀雄の話によると、日本人の作家で源氏物語を褒めているのは正宗白鳥であるが、かれはアーサー・ウェイリーの英訳で読んだそうだ。キーンさんもウェイリーの訳で読んで、後に親交を持つ。
ウェイリー訳、どうも名文らしい。読んでみたいものだ。


●以下ニュースより
 日本文学研究で知られる米コロンビア大名誉教授のドナルド・キーン氏(88)が日本に永住する意思を固め、日本に帰化する手続きを始めた。
 彼に近い人々は、「ドナルド・キーン氏は、東日本大震災で大変心を痛め、被災者との連帯を示すために永住への思いが固くなったようだ」と話している。
 ドナルド・キーン氏は、1922年、アメリカ・ニューヨーク生まれ。学生時代に、「源氏物語」の英訳を読み、日本文化に興味を抱いた。日米開戦後は海軍情報士官として、玉砕した日本兵の遺書を翻訳したり、捕虜を尋問。復員後、イギリスのケンブリッジ大学やアメリカのコロンビア大学、日本の京都大学で日本文学を学んだ。
 その著作に、「日本文学の歴史」「百代の過客」「明治天皇」などがある。
ドナルド・キーンという名前を、どこかで聞いたことがある人でも、ドナルド・キーン氏がどのような人生を歩み、その中でどのように日本と日本人に関わり、どのような思いを抱き、そして、今、なぜ日本人になろうと決意したのかなど多くを知らない。

「日本人となって日本国民と共に苦しみを分かち合いたい。これまで、親切に接してくれた日本の皆さまへの感謝の気持ちを、このような形で表したい」。日本中がこのニュースに感動した。



ついさきの歌声は (1981年)
果てしなく美しい日本 (講談社学術文庫)
わたしの好きなレコード (中公文庫)
ドナルド・キーンの音盤風刺花伝 (1977年)
源氏物語 (Kodansha's Illustrated Japanese Classics)
私と源氏物語―[録音資料] (新潮カセット講演)

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[2012/09/19 15:07] | 音楽の本 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top
砂の集団 
砂の集団




 音楽界ではお馴染み、吉田秀和さんの本です。
全集以降に出た本なので、何度か読み返しています。
『読書というのは、同じ本を何度も読みかえすことを指すのであって、初めて読むのは読書のうちに入らない』というところから、
「音楽を聴くとは、繰り返し聴くこと」
「絵を見るとは、くり返し見ること」
そんなことをまたまた書こうかと思っていたら、他のテーマが目につきました。



『物には決まったよさはなく… 吉田秀和』より 砂の集団。

 私は、日本人はヨーロッパ人にくらべると、大体、いつも似たような恰好をし、似たような生活をし、似たような意見をもち、強い個性を持たず、自分の属する集団の中に埋まって、誰をみても、大してちがいがないくせに、ひとりひとりとってみると、とても孤独なところで暮らし、生きているのではないかと思う。

 親子が仲よく暮らし、母親は子供のことを、自分の生命そのもののように可愛がっているように見える家庭でも、いったん、何かが起こってみると、それまでの愛情にみちた和気あいあいたる雰囲気が嘘みたいに一挙に消えてしまい、ひとりひとりが、冷たい無理解の壁にとりかこまれて孤立していたのを、錯覚していたにすぎないことが曝露する。こういった話が、TVの家庭ドラマや何かにしょっちゅう出てくるが、これは、すべてが作り話というのではないのだと思う。

 というのも、ふだんから、意見を出しあい、正直な気持を表しあって、生きて来たわけではないのである。


 外国のタクシーは荷物があれば、運賃をそれだけ余計にとり、かつ、こういうサーヴィスをすれば、客の方もチップをはずむ。「するだけのことはする。だから、相手も、それに応じて礼をする」。これがヨーロッパのやり方である。

 日本のタクシーは荷物があっても運賃は変わらない。そのかわりサーヴィスも全くしない。ここまでは、同じ理屈で割りきれる。割りきれないのは、日本では、相手がどうであろうと、一切関与しないという、その人間としての気持をきれいさっぱり除去している実状である。

 私たち、よく、「日本人は気持がこまやかで、相手への心づかいが微妙だ」などというが、それは口ぐせではあっても、そうして昔はそんな時もあったかも知れないが、少なくとも、今は、正しくない。日本には、ひとの気持だとか、ひとのあり方だとかには、できるだけ関心を持つまいとし、事実、まるで無関心になつてしまっている人が多い。あまりにも多い。

 私がこんな話を書くのは、自分が困ったからだけではない。そうではなくて、日本人の社会で、その成員同士の間を一つにつなぐ何かが失われたか、失われかけているかしているのではないか、という危倶を持つからである。それを隣人愛の喪失といってもいいし、人間性のそれといってもいい。

 いや、「隣は何をしている人なのか」、彼は困っているのか、幸せにしているのか、そのほか、どんな微弱な性質のものにせよ、隣人についての単純な好奇心さえも失われてしまって、隣つまりは、自分の属している社会の自分以外の成員についてのどんな関心も失われてしまったのではないか、あるいは急速に失われつつあるのではなかろうか、という気がするのである。

 もうすでに若くもない男と女が、いくつものカバンをもてあまして困りきってるという事態をみても、それに手をかすどころか、何の関心もなしに、そばを通りぬけてゆく。タクシーの運転手は、客が何をどうしようと、何とも思わない。いや、何とか思うという、そういう心の働きがなくなってしまって、自分の座っている運転席から、一歩も動くまい、どんな骨折りもしまい、ということしか念頭にない。

 私は、日本の社会をなしているものが、まるで、巨大な砂の集団であるかのような錯覚をもつ。


物には決ったよさはなく…

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[2012/03/09 15:17] | 音楽の本 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top
振れば、基本的には出来上がるのがプロ
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☆ カタールらしい

 昨日は、『最強の市民ランナー』川内 優輝 選手で一躍有名になった「春日部高校」のこれまた音響抜群、センテニアルホールに行ってきました。(毎週5回ぐらい通っている道ですが。)

 青島広志のピアノ伴奏と語り、日本人にはめずらしいヘンデンテノールの雄、大野徹也さん、ソプラノの山口道子さんの出演でした。

 ホールが異常に狭いためか、声量がすばらしいためか、オペラの時のように歌手と客席の間にオケが鎮座していないためか、非常に声が立派に響き渡りました。

 しかし、大野さんの、期待していたトゥーランドットのカラフのアリアを歌わず、有名でない小曲ばかりだったので、もの足りませんでした。

 なお、テレビでもお馴染みび青島広志さんのお話は、おもしろすぎて、歌唱を完全に食っていましたね。


そんでもって、初心者用クラシックの本をひとつ
『拍手のルール 秘伝クラシック鑑賞法 茂木大輔』より

 これだけ多数の情報を、プロのオケと指揮者は「動作を見る」ことだけで伝達できてしまう。リハーサルは、それでも伝えきれなかった部分についてのみ行う、というのがプロの仁義、レベルというものなのである。

 いかなる手の動きにもついてくる、訓練・洗練されたプロ集団を相手にすると、自分がガチガチに動いておいて「エレガントにお願いします」と言ったところで、「パーカ」と言われるのがオチなのだ。

 「振れば、基本的には出来上がる」のがプロで、振っただけでは出来なかったことだけをリハで追加するようにしないと、たとえ3日間もリハを貰っても、なにも実現しないで終わってしまうか、オケに物凄いストレスがたまる。棒がウマイ、棒ですべてを表せることはやはり必要なのだ。

 それでは、練習で1回通しただけで、もう本番が出来てしまうのか? と言われるかもしれな意外にもその答えは「基本的にイエス」である。

 その程度に、プロの指揮者とオケの間での無言での指揮情報というものは、多量に、かつ誤解無く伝達されるもので、受領・実行されるものなのだ。むろん、いくつか上手くいかない場所もぁり、また判断の分かれるようなところもあるから、数箇所、ちょちょっと直して、「はい、メンコン出来たよ!」と本番に送り出せばよい。大抵のプロオケの通常公演は練習が4時間くらいしかないのが普通なのである。

        
 では、なぜN響定期公演などでは3日間もリハーサルが取ってあるのか?
 というと、実は、「ここからが凄いのが巨匠、大指揮者というもの」だからである。
 デュトワ、サヴァリッシユ、サンティ、チョン・ミュンフン、プレヴイン、メータ、シュタイン……。

 もぎぎが経験してきた巨匠たちは、1回の練習で (最初の3分くらいで) 圧倒的な情報量と、そのイメージの素晴らしさで全員を感動させ、「もう、この肉だけでソースいらない……」と思わせておきつつも、そのあとの調理がまた凄いという、「上にはまだまだ上がある」というリハーサルを繰り広げる。

 プレヴインのように、にやっと笑って、「もう一回、ただし御一緒に(合わせて)」と言うだけの人もいる。通常の検査レベルではもちろん御一緒合格なのに、突如この工場長は「レベル160に引き上げ」と宣告したわけであり、その瞬間に以後5日間の演奏神経が引き締まる。
 
 「もう一回」 の演奏は、「聴いたことのないN響」に、一瞬で変わる (あ、若手指揮者の方、絶対マネしないで下さい。「アンタがジャマしているからだ。あんただけもう一回!」と思われます)。




★拍手のルール 秘伝クラシック鑑賞法 茂木大輔

 


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[2012/01/22 18:20] | 音楽の本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
大事な言葉は片耳にささやけ
片耳に囁



『指揮者の仕事術 伊東乾』より


 さてここで、この章の冒頭に記したまま答えをお預けにしておいた、「聴き手に言葉の意味を明確に伝えるためには、実はシンプルな原則とコツがある」ということについて触れてみたいと思います。意外なほど知られていないそれは、いまお話しした 「主に片耳に向けて歌う」 ということなのです。

「主に片耳に向けて歌う? そんなの聞いたことがない」 と思われるかもしれません。でも、ちょっと注意深く調べてみると、いまご説明したとおり、キリスト教の教令などにも記されている、実は大変オーソドックスなテクニックであることが分かります。

 これを現代の日本の例で考えてみましょう。たとえば、携帯電話で話す場面をイメージしてみてください。携帯電話は片手で持ち、片耳で相手の声を聞きながら話しますね。電話の音声は1チャンネル、つまりAMラジオと同じように 「モノラル」 で送られてきます。FMのような 「ステレオ」 ではありません。なぜでしょう? せっかく技術が進歩しているのですから、よりよい音質でステレオ通話ができてもよさそうなものなのに……。

 実は、人間は音を聞きとろうとするとき、利き耳だけで聞いています。そして、利き耳でないほうの耳から入ってくる音は、脳のなかで「捨てて」しまっているのです。脳科学の言葉を使うなら、利き耳以外から入ってくるニューロンの「発火」を、中枢は有用な情報として取り込まないようになっているということになります。

 では、両耳に同じ強さで音が入ってきたらどうでしょうか? その場合は、言葉の意味が聞き取りにくくなつてしまいます(これは「両耳マスキング」として知られている認知現象です)。「両耳」で音を聞こうとするのは、周囲の気配を知ろうとするときです。

 この現象、実は視覚についても同じようなことがいえます。文字を読むとき私たちは、もっぱら利き目だけで文字を追っています。ためしに、いまこの本を読みながら片目ずつウインクしてみてください。視野が変化しないほうの目が利き目です。もう片方の目から入った刺激は、脳によって知的な情報として認知されないため、見過ごされてしまうのです。

 逆に街を歩いたり、山登りをしたり、スポーツをしているときなど、私たちは両目を使って周囲の環境全体を察知しようとするのです。

 話を少し戻して、ここで 「片耳に向かって話しかける」 というテクニックの普遍性に注目することにします。というのも、同様の原理が西欧のオペラにも存在しているからです。 オペラでは、いくら舞台で一生懸命に歌っても、もしその言葉の意味が客席にいる人に伝わらなければ、歌詞の内容も通じません。

「オペラを見に行ったけれど、歌手がわぁわぁ大きな声を出しているだけで、何を歌っているのか、さっぱり分からなかった」 という話はどこの国でもよく耳にします。実際、舞台上で考えなしに大声を出しても、聴衆にその内容はほとんど伝わりません。

 オペラ歌手が聴衆に言葉の意味をきちんと伝えるためには、できるだけ聴き手の片方の耳に選択的に声が届くよう、歌う位置や声の届く方向を工夫しなくてはなりません。もっと明確にいうなら、劇場全体を「左右非対称に響かせる」ように声を出すことが重要です。

 マイクロフォンやスピーカーが普及する1950年代より以前、イタリアオペラの歌手にとって、このテクニックは常識でした。伝説的な名歌手エンリーコ・カルーソーをはじめ「イタリア楽派 (スクオラ・イタリアーナ)」 と呼ばれた歌手たちは、以下のようなコツを念頭において、リハーサルの間にホールの音響を確認していました。

(0.舞台の中央には絶対に立ってはいけない)
1.必ず舞台中央から右か左に寄った場所に立って
2.その位置から、もっともよく反響が返ってくる 「目標となる斜め横の壁や天井」 を探し出し、それに向かって歌え

 なかなか教訓に富む詣です。実際、カルーソーやジャコモ・ラウリ=ヴオルピなど往年のスクオラ・イタリアーナの名歌手の歌を生で聴いた経験をお持ちの方々 (すでに高齢でいらっしゃいますが)は、「弱い声は、本当に耳元でささやくように聞こえた」と言われます。

 当時の歌手は巧みな知恵と合理的な根拠に基づいて、歌をホール全体に響かせていたのです。これこそまさに「声の芸術」です。
最近のオペラ公演では、演出に工夫を凝らして、観客の好奇心をかき立てます。しかし、演出家は必ずしも音楽作りの現場を知りません。このために、視覚に偏った工夫がむしろ鬼面人を威す珍演出となり、歌手や演奏者が本番で苦労することも実は少なくありません。



 

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[2011/05/21 23:00] | 音楽の本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
斉藤秀雄先生の才能開発法
1.型にはいって、型から出よ。
教育はまず「型」からすべてが始まる。
教育とは、教えることより、むしろその後の「自己教育力」を育てること。
日本人が外国の文化を学ぶには、英語でも音楽でも文法が必要。
学ぶ内容に法則を見いだすことは、強い武器を持つのと同じ自信につながる。
「学ぶ」ことは「まねる」ことから始まる。
法則・文法を使って身につけたものは、他人にも通じやすい。
低い山なら自己流で登れるが、高い山には専門の知識や技術が必要。
基礎さえ厳しくやれば、あとは基本的に放っておいていい。
行き詰まったら基礎に帰れ。

2.好き嫌いから理解へ。
教える側は「字」を教える、その「字」をどう使うかは教わる側の責任。
斉藤はあくまで字を教えているのであって、けっして文学を教えているのではないというのです。なぜなら一流の芸術は、基本的には人に教わるものではないからです。
先生は医者と同じで、悪いところを見つけるとともに直せなくてはならない。
学ぶとは、学ぶ内容のすばらしさを知るところから始まる。
子供には高度すぎることも、手抜きしないで教えておけば、いつかは理解される。
教育はまず正確に、次に深くを目指す。

3.厳しさは愛情の証。 
愛情から来る厳しさだけが子供を育てる。
弟子に厳しくするには、自分にも厳しくしなければならない。
説明しないで突き放し、自分で悩ませることが必要なこともある。
教える側が真剣になれば、怖くなるのは当たり前。
なにを習うにも習うからには、プロになる気持ちで始めろ。

4.技術の追求こそが精神性を生む。
技術一辺倒の中にこそある精神性。
技術がすべてではないけれど、大家はみなミスをしない。
癖を天分、才能と勘違いするな。
芸術家でも何でも、一流のプロは、まず職人でなくてはならない。

5.教育とはピラミッドを築くこと。
子供をまず一人前の人間として扱うことから教育は始まる。
教育に必須のテクニックは”人を見て法を説く”こと。
教えている時点でできるかどうかで、その子を評価してはいけない。
教育というものは結果が出るまで時間がかかるものです。子供を教育しているとき、その子供がどんな大人になるかなどということはわからないものです。中年からいろいろな才能を発揮している人もいます。

6.教えることは学ぶこと。
教えるということは、教わるということでもある。
自分が苦労して身につけたものこそ、子供たちに教えられる。
「どなる」まえに、自分の教え方を見直せ。
苦労して学んだことを、出来るだけ楽に早く学ばせたいと考えるのが教育。
自分が習ったとおりに教えるというのは、大人の怠慢。

7.人の音を聞ける人間になれ。
自分の専門を極めるためには、その専門だけをやっていたのではだめ。
コンクールがあるからと、オーケストラの練習をさぼるようでは一流になれない。
下働きをさせることで、習うことの本質に迫ることもある。
早すぎても、遅くてもいけない時間厳守には、ちゃんとした理由がある。
団体行動がきちんと出来るのも大きな能力のひとつである。
どんな分野でも、奥行きの深い仕事をするのには、豊かな人生経験がものをいう。
芸術は、学ぼうとすればいたるところにころがっている。

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[2010/06/17 20:34] | 音楽の本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
音楽には、かなわない。 すべては音楽から生まれる。
茂木音楽



 よくテレビにも出る、美術雑誌にもエッセイなどを書いている茂木健一郎さんです。脳に関する本なども、「なんだかなー?」と思っていました。あんまり面白いことをいわない人だ。

 つまり、この人、美術のことが本当にわかってるのかな?と疑っていました。ところがどっこい、音楽のことはしっかりわかっているようなので、安心しました。

『すべては音楽から生まれる  茂木健一郎』です。


 だから私は、新しい自分に出会いたくてコンサート会場へ足を運ぶ。演奏に耳を傾けることで、今までの自分の人生がどれくらい豊であったかを確かめる。

 シノーポリは、客席の聴衆にも表現を要求しているかのようだった。自分の本当の感情を表現せよ。心の深いところにある、あるがままの感情を開放せよ、と。

 あの時、私の体は確かに共鳴していた。まるで体が一つの楽器になったような気さえした。オーケストラの紡ぎ出す音が自分の中から生まれてくるようにも感じられ、音楽の生々しい躍動感につられて、心がざわめき始めた。体中が内側から響きだし、その響きとともに、体内の深い深いある一点に、手が届きそうに思われた。私自身が鳴っていたのだ。

 「美しい」「嬉しい」「悲しい」「楽しい」…。一瞬一瞬に生身の体で感動することによって、人は、自己の価値基準を生み出し、現実を現実として自分のものに出来るのである。それが「生きる」ということである。だからこそ、本当の感動を知っている人は、強い。生きていく上で、迷わない。揺るがない。折れない。くじけない。

 音楽は、そんな座標軸になり得る。音楽の最上のものを知っているということは、他の何ものにも代えがたい強い基盤を自分に与えてくれるのだ。

 生きながらにして、生まれ変わるような体験。それが音楽であり、音楽が生命哲学の根幹に関わるジャンルと呼ばれる所以も、ここにあるのかもしれない。


 音楽のクオリアは、自由である。感情の「無限定性」を最も生かした芸術が音楽である、と私は思っている。心というものは、飛ばそうと思えばどこまでも飛ばすことのできる、いわば無制限の飛行機だ。その振れ幅は一定ではない。知覚の対象に元来備わっている特性を越えた質感を見いだすのは、〈私〉だ。

 音楽のクオリアは、〈私〉の脳内に「予測不可能な大きな穴」を開ける。やっぱり、音楽はすごい。音楽には、かなわない。これが、物理学、法学、生物学、脳科学を研究してきた一人の男の、素直な気持ちである。


 会場は拍手喝采。ライトを当てていた私の全身にも、すさまじい震えが走った。感極まって思わす高い声が出てしまった。そんな鮮烈さと衝動が感じられた。第1幕、第2幕とクレッシェンドするように何かが高まり、そしてついに第3幕のフィナーレで臨界を越えた。溢れ出したなにかが、彼女にあの声を出させたのだろうか。

 あの日の演奏は、上手下手でいえば、もちろん、プロにはかなわない。しかし、あの時私を震わせた音楽には、尋常ではない波動があった。すべてを一瞬にして見渡せるような高みへと向かう限りない上昇、とでもいおうか。

 音楽における体験の豊かさや感動の深さという点では、「ライブ」に勝るものはない。脳へサインを送る力というものを考えると、CDやDVDの音は、ライブ演奏を決して越えられないのである。

 コンサートは、消えていく。その事実に唖然とする。そもそも、生きるということが、次の瞬間なにが起こるかわからないということである。一回性の出会いを求めて、私はコンサートホールに足を運ぶ。それが「生きる」ということであり、人生そのものであるのかもしれない。




  

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[2010/05/29 17:03] | 音楽の本 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top
ザ・ビートルズ・サウンド最後の真実 ジェフ・エメリック
エメリック3


☆裏表紙の写真を下にはめ込みました。
ジョージ・マーティン、ジェフ・エメリック、ブライアン・エプスタイン、後ろの女の子はだれ?

 ここのところ、もっぱら絵を描くのを、ミュージシャンがレコーディングをしているのになぞらえ、あるいはアートライブで取り上げることも考え、1日ごとにセッションの記録?をつけている。ほとんど何番目のテイクかかいているだけだけれど。

 昨年は、すごいことにね、旅行していた、だいたい2週間ほどを除いて、1日も欠かさず、絵を描いていた。まだ完成していない、いちばんの大作M30号などは、現在161テイクとなっている。

 まるでアルバムを制作しているかのように、だいたい10点ぐらいの作品を、とっかえひっかえ、今日は「ペニーレイン」のtake23に、ピッコロトランペットを入れ、午後からは「ストロベリーフィールズ」のtake33の最初と、take35の後半を、テープスピードを変えながら、うまく切り張りして、1つの曲に仕上げる。

みたいなことを、実はテレビの前で、レッドカーペットなど見ながら、やっている。
(ちがうかっ!)

 そこで、今週はこれを読むので手一杯、ジョン・カルショウの「ニーベルングの指輪」レコーディング本よりも厚い本だった。

「ザ・ビートルズ・サウンド最後の真実 ジェフ・エメリック」です。

 ビートルズのレコーディングというと、ビートルズ本人とプロデューサーのジョージ・マーティンだけでやっていたみたいな印象を受けるが、実は後期になればなるほど、プロデューサーは何もしていないようだ。

 実際に、ビートルズの意を受けて、(徹夜で)マイク位置を考えたり、イコライザーなどで音を変えたり、テープスピードを変えて切ったり貼ったり編集するのは、エンジニアとそのアシスタントである。手柄はみんな上司がもっていく。

 この事情は恐らく、ジョン・カルショウもそうであったろうと思われる。ビルギット・ニルソンの本によると、レッグのEMIからデッカに移って、レコーディングの時に、カルショウが何も指示しないのに驚いたそうだ。

 以前から不思議だった、「ラバーソウル」以前と「リボルバー」以降の音の違いの理由がわかった。エンジニアがノーマン・スミスからジェフ・エメリックに変わったのである。「アビーロード」の音の違いは、真空管からトランジスタに変わったせいだ。

 その後、ビートルズのあまりにひどい無礼講レコーディングに、「ホワイトアルバム」制作中、EMIを退社。「アビーロード」には請われて参加。ちょうどエメリックが参加していない「レット・イット・ビー」は、音質が最悪だ。さらには、ポールの名作「バンド・オン・ザ・ラン」に参加。この時は、ポール、リンダ、デニー・レインとたった4人で、ラゴスに乗り込んでレコーディングした。

 近いところでは、ポールの「フレミング・パイ」のレコーディングに参加している。この本は、つい最近、2006年12月に出版されている。ジョンとジョージが亡くなり、40年も時間がたったからこそ言えることが、たくさんあったのだろう。この間、ジェフもポールも奥さんを亡くしている。

 ここ数年読んだ中で、いちばん面白い本だ。


  


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[2010/01/16 18:29] | 音楽の本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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