そうだ京都、行こう。
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 1993年からJR東海が始めた「そうだ京都、行こう。」キャンペーンに使っているポスターなどの写真を集めた写真集の新しいのが出ていた。古い方は持っているの見比べてみた。

そうだ京都、行こう。 淡交ムック 淡交社 2004年、平成16年

「そうだ京都、行こう。」の20年 ウェッジ 2014年、平成26年

 ほぼ同じ内容の写真集で、半分ほどは同じ写真が使われているが、他は違う写真が使われている。全部違うバージョンではないので、最初の本を持っている人が買うと、損をしたような気分になるのではないかと思われる。出版社も違う。

 どちらかというと、やはりというべきか、最初の本の方が、定番的な決まっている写真が多く、新しく取り上げられている写真は、ふつうの人が見落としているであろう、ちょっと変わったアングルからのものが多いように感じる。

 ほとんどのお寺は訪問しているので、桜と紅葉の写真は、似たようなものを自分でも持っている。当然、自分や仲間も、絵に描いたことのある場面もたくさん含まれている。どちらかというとあまり目立たないお寺である法然院の写真が多い。初夏、秋、冬と3枚も載っていた。


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そうだ京都、行こう。 (淡交ムック)

「そうだ京都、行こう。」の20年
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[2017/05/15 14:49] | おすすめの本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
ブッダが説いたこと
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 ブッダの瞑想法、ヴィパッサナー瞑想のことは、なんども取り上げました。自分を醜くしているのは、自分の思考です。部屋を掃除するように、心の中を心配事で一杯にしないで、現在に集中します。私たちは頭の中だけで、すでに疲れています。美人は瞑想から。

 このようなことが、より簡潔に書いてある本がありました。『ブッダが説いたこと  ワールポラ・ラーフラ』は、実は岩波文庫です。ということは、まず難しそうで、手に取らない人が大いに違いない。しかし、岩波文庫も読みやすくなりました。新書版のようです。



 仏教がいかに高尚で高貴であっても、現代における日常生活で実践できないものなら、それは意味がない。しかし仏教の真意を正しく理解すれば、普通に家族生活を営む現代人でも確実に実践できるものである。

 すべての行いに対して、それをする瞬間にそれを意識することである。すなわち、今この時点で、今行なうことに集中する、ということである。

 一般に、人は自分が今行なうことに、あるいは現在に生きていない。人は過去あるいは未来に生きている。人は今ここで何かをしているように見えても、頭の中ではどこか別なところで、問題や心配事を思い浮かべながら生きている。

 普通の場合には、それは過去の記憶であり、未来への願望であり、思惑である。それゆえに、人は今行なっていることに生きていないし、それを楽しんでいない。だから人は現在、今している仕事が楽しめず、不満で、していることに全神経を集中できない。

 人生から逃避しようとしても、できるものではない。生きている以上は、町の中であれ洞窟の中であれ、人は人生に直面し、人生を生きなければならない。本当の人生は、過ぎ去った、死んだ過去の記憶でもなく、まだ生まれていない未来の夢でもなく、この瞬間である。今の瞬間を生きる人は、本当に人生を生きており、もっとも幸せである。



私が思うに、要点は「ものごとをありのままに見る」です。

明日、がんばろう。

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[2016/05/04 18:22] | おすすめの本 | トラックバック(0) | コメント(1) | page top
宗教も消滅
 そういえば、何十年か前にちがいないが、アパートに住んでいた頃は、新興宗教の勧誘が、それも同じ人が何度も訪問してきて辟易していた。いちいち断るのも面倒なので、ノックがあっても居留守を使って出ないようにしていた。(今でもたまにはすることがある)おかげで、友人が来てくれたのに、すっぽかして嫌な思いをしたこともある。

 今では、似たような理由から、電話に出ないことの方が多いような気がする。逆に、人に電話をかけても、こちらがあやしいものではないと分かるまでの、相手の警戒感が気持ちよくない。平日に男性が住宅街を歩いているだけで、通報されるなんてことがあるらしい。そう考え出すと、私なんか怪しい人だ。
 
 その頃は、残念なことに親しい友人、知人にも宗教にはまっている人が多くて、困った。好きな女の子が、やけに親切にしてくれると思ったら、結果的に宗教の集まりに参加していたり、一部の政党に投票させられたりもした。結局そんな人たちとは付き会わなくなったから、回りからいなくなったような気がしていたら、そんな宗教活動をしている人が、激減しているようなのだ。

 戦後の高度成長期、田舎から都会に出て、孤独にひとり暮らしを始めた人を取り込んで大きくなった宗教団体であったが、昨今の若者は入信しない。だいたい、都会以外にどこへ行っても若者をほとんど見かけない。地方の限界集落と同じで、信者の減少と高齢化で頭打ちになっているようだ。

 それどころか、この本によると「宗教消滅 資本主義は宗教と心中する 」ヨーロッパのカトリックなんかでも、毎週教会へ行く人が激減しているそうだ。それに伴い、特にスペインあたりで、イスラム教徒が増えているようだ。イスラム教徒が増えたといっても、全体に宗教人口が減少しているのは間違いない。この本は本当に面白かった。

 宗教の信者が減少したからって、檀家を持っているお寺以外、日本全体が困るわけではないと思うが、やっぱり全体的に国力が弱ってきているのはまちがいない。さらにこの本によると、葬式も簡素にし、お墓を持たないようにする人も増えているそうだ。ブッダも葬式なんかしないで、修行に励めと言っているのだから、葬式はしなくてもいいと思っているし、近所の小さいお寺もなくてもいいと思っている。何事にもとらわれてはいけない。

 ついでに言うと、人口が減少するのも、そんなに悪いことではないと思っている。狭い国だし。しかし、大都会しか普通の生活がしにくくて、地方都市には高齢者しかいなくなって、どんどん限界集落が増えているのには歯止めをかけないといけないと思っている。私が育った地方なんて、仕事もないし消滅しそうだ。それにしても、みんなサラリーマンやってて、誰が食料を作っているのだろう。 私の知る限り、お米を作っているのは高齢の方ですよ。

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[2016/04/17 14:12] | おすすめの本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
考えない練習
 この本は、「考えない練習 」といったタイトルですが、まあ、禅とか、ヴィパッサナー瞑想のような修行法のことです。ブッダの修行法で、最近ではスマナサーラさんや地橋秀雄の著書が目につきます。(この二人の方がおすすめです)

 人間は常々、余計なことばかり頭の中で考えたり、思い出したり心配したりしています。そのため心が落ち着かず、波打っています。たえず不安がつきまとっています。それは余計なことなので、現在の事実のみに目を向けます。現在の回りの状況、騒音、自分の体調、呼吸などだけを意識し続けます。そうすることによって、心に平安が訪れる。顔つきも変わってくる。そんなことだと思います。

  「考えない練習」というタイトルなのに、こんなことが書いてあって驚き、考えさせられました。「人間の行動はほとんどが脳の反射によるもので、本当は自由意志なんてないんだ」「反射しかないんだったら、その反射を鍛えればよい」「本人の意識に自由はないけれど、脳に支配されていることを意識することによって拒否権が生まれる」

 浮上してきたのが、「人間に自由な意志はあるのか」問題です。

 先日載せた武田邦彦さんもこう言ってました。「僕は自分には意志がないと思っています。意志がないんだけど、何か今まで経験してきたすべてのことを通じて、たとえばこの瞬間にこの本を開けようと思うわけですよ。思うから開ける。それが自分の意志だと後で思う。行なった後に思う」


 細かく見れば、万物は原子でできています。原子がたくさん組み合わさったからといって、そこに電流が流れたとして、個人の意志が生まれるものでしょうか。現代のスーパーコンピューターでも全くできていません。DNAに組み込まれた生物としての本能が進化すると、意志になるのでしょうか。

 人間の体の細胞は、だいたい3ヶ月もすればほとんど入れ替わります。部品をほとんど取り替えたものが、同じものでしょうか。もっと長く考えれば、総取っ替えしていることは明らかです。何十年前の子供の時とは、見かけも頭の中もずいぶん違ってますよね。同じ自分だと思ってますが、これって本当に同じ人間なのでしょうか。体は、洋服のように、取り替えのきくもので、意志は別にあるのでしょうか。

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[2016/04/10 16:00] | おすすめの本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
見えているものはすべて嘘
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 ヨーガ行者で有名な、成瀬雅春さんの対談集です。だいたい知らない格闘家みたいな人が多いのですがその中に場違いにも武田邦彦さんが入っていました。さんまの「ホンマでっかTV」で、池田清彦さんの横に座って、主に原子力や地球温暖化などの環境問題に詳しい先生のようで、妙に変わったことをコメントするおじさんですね。環境問題のウソ、といった本も読んだことがあるし、見慣れているから、ここで登場するのが不思議でした。そして、今まで聞いたことのない話をしていました。


『ヨーガ行者の王成瀬雅春対談集-“限界を超える”ために訊く10人の言葉-』より
武田邦彦さんの言葉。

「私はいま自分が見ているものはすべて嘘だと思っているんです。なぜなら、化学はずっとそういう歴史を経てきたわけです。人類がこの先ずっと続くとすると、いまわれわれが正しいと考えているものはすべて否定されてしまう。科学者は自分がくだらないことをやっているということは、よくわかっているわけですよ」

「僕が若い人たちをどう教育しているかというと、科学的な事実をそのまま見る、つまり人間的な心を取り去る訓練をするということなんです。科学自体は割合簡単なものなのですが、自分が対象物を見るときに怖れとか希望とかを介在させるから、事実をそのまま見られないんですよ」

「普通の人は、一つのことを説明するときに自分の頭の中で正しいと思うものを探すんです。思考は必ずそういう探し方をします。しかし、ある程度までいった人はね、そういうふうには探さないんです。いま自分の中にある知識は不完全だということを知っている。あることを説明しようとするときに、自分の知識の中に求めようとはしないんです。全体の知識、正しい知識というのがあるとすると、そこには山ほど別のものがある。それをよくわかっているわけです。いままでの知識ではこう説明できますよ。でもそれは全部間違っていますよ。と、こういう言い方になるんですね」

「僕は自分には意志がないと思っています。意志がないんだけど、何か今まで経験してきたすべてのことを通じて、たとえばこの瞬間にこの本を開けようと思うわけですよ。思うから開ける。それが自分の意志だと後で思う。行なった後に思う」

「僕は、目標を置くな、とつねに言っているわけですよ。目標をいうのはくだらないもので、ぼんやりはあったほうがいいかもしれないですが、ほとんど無意味だと」

ヨーガ行者の王 成瀬雅春対談集 “限界を超える”ために訊く10人の言葉

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[2016/03/24 17:47] | おすすめの本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
The Grass Pillow or Tristram Shandy 2
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 世の中に、小説の読み方、読書案内などの本は何百冊もあって、見つけた本はなるべく読むようにしている。それにしても、漱石によるトリストラム・シャンデー風の読書論は変わっている。ほとんどの物語はストーリーが重要であるから、前から順番に読むのが当たり前である。ミステリーなんか、バラして読んだらどうしようもない。そこへいくと純文学のあるものは、どこを読んでもいいような気がするものがある。

 かくいう『トリストラム・シャンディ』も『草枕』もそうである。『雪国』や『失われた時を求めて』も、どこを開いても同じようにいい。内容の密度に偏りがない。これは、すでにあらすじなど熟知している場合に限るのかもしれない。最初に読むときは、さすがに、順番どおり読んだ方がいいだろう。それから先のことだ。やはり読書というものは、何遍も読むのが読書なのである。



「西洋の本ですか、むずかしい事が書いてあるでしょうね」
「なあに」
「じゃ何が書いてあるんです」
「そうですね。実はわたしにも、よく分らないんです」
「ホホホホ。それで御勉強なの」
「勉強じゃありません。ただ机の上へ、こう開けて、開いた所をいい加減に読んでるんです」
「それで面白いんですか」
「それが面白いんです」
「なぜ?」
「なぜって、小説なんか、そうして読む方が面白いです」
「よっぽど変っていらっしゃるのね」
「ええ、ちっと変ってます」
「初から読んじゃ、どうして悪いでしょう」
「初から読まなけりゃならないとすると、しまいまで読まなけりゃならない訳になりましょう」
「妙なりくつだ事。しまいまで読んだっていいじゃありませんか」
「無論わるくは、ありませんよ。筋を読む気なら、わたしだって、そうします」
「筋を読まなけりゃ何を読むんです。筋のほかに何か読むものがありますか」
 余は、やはり女だなと思った。多少試験してやる気になる。
「あなたは小説が好きですか」
「私が?」と句を切った女は、あとから「そうですねえ」と判然はっきりしない返事をした。あまり好きでもなさそうだ。
「好きだか、嫌きらいだか自分にも解らないんじゃないですか」
「小説なんか読んだって、読まなくったって……」
と眼中にはまるで小説の存在を認めていない。
「それじゃ、初から読んだって、しまいから読んだって、いい加減な所をいい加減に読んだって、いい訳じゃありませんか。あなたのようにそう不思議がらないでもいいでしょう」
「だって、あなたと私とは違いますもの」
「どこが?」と余は女の眼の中うちを見詰めた。試験をするのはここだと思ったが、女のひとみは少しも動かない。
「ホホホホ解りませんか」
「しかし若いうちは随分御読みなすったろう」余は一本道で押し合うのをやめにして、ちょっと裏へ廻った。
「今でも若いつもりですよ。かわいそうに」放した鷹はまたそれかかる。すこしも油断がならん。
「そんな事が男の前で云えれば、もう年寄のうちですよ」と、やっと引き戻した。
「そう云うあなたも随分の御年じゃあ、ありませんか。そんなに年をとっても、やっぱり、惚ほれたの、腫はれたの、にきびが出来たのってえ事が面白いんですか」
「ええ、面白いんです、死ぬまで面白いんです」
「おやそう。それだから画工なんぞになれるんですね」
「全くです。画工だから、小説なんか初からしまいまで読む必要はないんです。けれども、どこを読んでも面白いのです。あなたと話をするのも面白い。ここへ逗留しているうちは毎日話をしたいくらいです。何ならあなたに惚れ込んでもいい。そうなるとなお面白い。しかしいくら惚れてもあなたと夫婦になる必要はないんです。惚れて夫婦になる必要があるうちは、小説を初からしまいまで読む必要があるんです」
「すると不人情ふにんじょうな惚れ方をするのが画工なんですね」
「不人情じゃありません。非人情な惚れ方をするんです。小説も非人情で読むから、筋なんかどうでもいいんです。こうして、おみくじを引くように、ぱっと開あけて、開いた所を、漫然と読んでるのが面白いんです」
「なるほど面白そうね。じゃ、今あなたが読んでいらっしゃる所を、少し話してちょうだい。どんな面白い事が出てくるか伺いたいから」
「話しちゃ駄目です。画だって話にしちゃ一文のねうちもなくなるじゃありませんか」(草枕より、余と那美さんの会話)



 『トリストラム・シャンディ』を読み始めて何か書こうと思ったら、『草枕』が多くなってしまった。きっと、共通点が多いのである。スジのない話を非人情に、適当に読んでいると、なかなか読み終わらない。部分的には面白い話なんだけど。少々無理して読まないと終わらないかもしれない。でも話したら一文の値打ちもなくなるんだな。なるべく書かないようにしようか。

 『トリストラム・シャンディ』ふうに思えば、人生なんて神の意志によるのであって、本人には責任がないと言いたい。職業選択の自由なんてものが存在するようになるのは近年のことであって、都市に住んでいる人には信じられないだろうが、ほとんどの人は農業に従事していたのだ。あるいはせいぜい兼業農家であった。私の子供の頃にして、教師と僧侶と警官以外は農家だった。教師にしても、農繁期には休みを多めに取って家の水田の手伝いをしていた。70年前に生きていたら、確実に農業に従事していた。(何しろ道が通じたのが50年前だ)私が農業をせずに、非人情な画工で生きているのも、本人には責任がない。そうに違いない。そう思うことにしよう、。




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[2016/02/18 18:16] | おすすめの本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
The Grass Pillow or Tristram Shandy 1
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 ローレンス・スターンの『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見』である。
The Life and Opinions of Tristram Shandy, Gentleman.

名前だけは以前から知っていたが、他の名作のように本屋や図書館で見たことはなかった。漱石はロンドン留学中に読んだのだろうが、よほどこの作品が気になっているのか、書評みたいなものも書いている。私が知ったのは『草枕』の後半で出てくるからである。

 最初の一文だけは作者が書いたものだが、あとにどう続くかは神の意志によるのであって、話がどうなろうと作者には責任がない。非人情の旅、余の散歩もこの流儀でいこうと書いてある。といっても、いきなり観海寺の和尚に会いに行っただけなのだけれど。

 その漱石当時にして150年前に書かれた本であった。今回借りてきた本は、岩波文庫の昭和44年初版本だった。たぶんそんなに売れていないのだろう。

『トリストラム・シャンディ』(The Life and Opinions of Tristram Shandy, Gentleman)は、イギリスの小説家ローレンス・スターンが書いた未完の小説。全9巻からなる小説で、1759年の末から1767年にかけ、2巻ずつ(ただし最後の第9巻は単独で)5回に分けて出版された。日本には、1897年に夏目漱石によって初めて紹介され、『吾輩は猫である』に影響を与えたとされる。(ウィキペディアより)

 『トリストラム・シャンデーと云う書物のなかに、この書物ほど神のおぼしめしにかのうた書き方はないとある。最初の一句はともかくも自力でつづる。あとはひたすらに神を念じて、筆の動くに任せる。何をかくか自分には無論見当がつかぬ。かく者は自己であるが、かく事は神の事である。したがって責任は著者にはないそうだ。余が散歩もまたこの流儀をくんだ、無責任の散歩である。ただ神を頼まぬだけが一層の無責任である。』(草枕より)


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[2016/02/12 17:45] | おすすめの本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
『失われた時を求めて』 ソドムとゴモラ
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 さて、新年であるが、掃除以外は、何も特別なことをしないように気をつけている。しかし変わったことを書かないと、おもしろくない。大晦日に、ふだんは買わない「クリームたっぷり400円のロールケーキ」と「缶入り粒あん」(お餅はある)を買ってきたぐらいだ。いつもは買いたいけど、我慢しているのだ。その点は、めったにしない、後悔をしている。

 年末に、遠い中央図書館に行ってみたら、吉川一義訳の「失われた時を求めて 9巻」が出ていたので、8巻とまとめて借りてきた。

『失われた時を求めて』(うしなわれたときをもとめて, À la recherche du temps perdu)は、マルセル・プルーストによる長編小説。1913年から1927年までかかって刊行された。ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』と共に20世紀を代表する小説の一つとされている。

 一昨年、2ヶ月かかって通しで読んだ。鈴木道彦訳 『失われた時を求めて』(全13巻)集英社、1996年 - 2001年版である。これはこれで良かったので、新しい訳のものがないか探したところ、二人の訳が進んでいた。

高遠弘美訳 『失われた時を求めて』(全14巻予定)光文社古典新訳文庫、
吉川一義訳 『失われた時を求めて』(全14巻予定)岩波文庫、である。

 前者(こっちも3巻読んだ)は途中で、ストップしているみたいだ。後者は、文庫で出ているものの、一昨年までに半分の7巻まで、そこまで読んだ。それ以降、半年に一冊ペースだ。訳は非常に読みやすい。

 8巻と9巻は同じテーマの1と2だ。だから2冊そろうまで待とうと思っていた。そのタイトルは、「ソドムとゴモラ」である。ギリシャ時代からよくある同性愛がテーマで、この時代は社会的に厳しかったようだ。ちなみにソドムが男で、ゴモラが怪獣ではなくて女のことだ。遠回しに言うときは「倒錯者」となっている。

 ふつうの文学作品みたいに暗くて悲惨なわけではないが、新年にふさわしい内容とはいえない。

 出たばっかりの9巻も、半年前に出た8巻も、ちゃんと棚にある。それもページを開いた形跡のない真新しい本だ。安部総理以上に、人気がない。ちゃんと最後まで刊行されるのだろうか。自分で買わなくても、図書館が購入してくれるのだろうか。心配で、お餅が喉を通らず、粒あんだけ食べている。


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[2016/01/04 16:41] | おすすめの本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
四季のことば
 「四季」といえば、ビバルディのヴァイオリン協奏曲集「和声法と創意への試み」op.8(全12曲)の最初の4曲の総称ですが、森博嗣のミステリーを読んでいれば、真賀田四季に決まってます。

 最初の小説「すべてがFになる」(と10作目)の最重要人物です。このFは、パソコンに詳しい人だったら、すぐに連想することのできるFです。

 偶然借りたエッセイが気に入ってから、今年の夏以降、この人の本、現在の所、27冊読みました。どれだけ多作なんでしょう。どれだけ共感するところがあるのでしょう。

 最近読んだ、取り立ててストーリーらしきもののない小説4部作「四季」から。真賀田四季または周りの人のことば。ふだんから、なんとなく考えているようなことだ。あれっ、こんなこと今まで書いたことなかったけか、と思うぐらいだ。

 しかしこれは、作者の言葉ではない。確信のある意見を言っているわけではない。エッセイではなくて、小説なのだ。小説の中の登場人物がしゃべっていることだ。だから目くじらを立てて突っ込まれても困る。「人間は死なない」なんてことを言っているわけではないのだ。フィクションということで、自由にモノが言え、真実に迫れるということもあるだろう。



四季


 どこから来た。私は誰?どこへ行く。
貴方は、貴方から生まれ、貴方は貴方です。そして、どこへも行かない。

 私たちは、トラックを何周も回っているの。いくら走ってもどこへも行けないわ。

 外へ外へと向かえば、最後は中心に戻ってしまう。だからといって、諦めて、動くことをやめてしまうと、その瞬間に消えてしまうのです。それが生命の定義。

 死を恐れている人はいません。死に至る生を恐れているのよ。

 そもそも生きていることの方が異常なのです。死んでいることが本来で、生きているというのは、そうですね、機械が故障しているような状態。生命なんて、バグですものね。
 生きていることは、それ自体が、病気なのです。

 眠るときの心地よさって不思議です。なぜ、私たちの意識は、意識を失うことを望むのでしょう。眠っているのを起こされるのって、不快ではありませんか。覚醒は本能的に不快なものです。


 真っ当なビジネスが、いちばん人を騙している。


 メモリィが大きい、処理能力が高い、つまり賢いものほど、長い期間、子供である必要があるのです。動物の中では、人間がもっとも成長が遅い。何年も子供を経験します。

 考えることだけが自由なんだ。行動なんて些細な問題だ。考えたことを、僅かに具体的に、ほんの部分的に試すにすぎない。考えたことの100分の1だって実現することはできない。博士くらいの思考能力を持っていれば、行動はすなわち無駄だ。行動するだけで、時間やエネルギーが消費される。

 扇風機のように、前にしか風が来ないなら、こちらを向いてくれないと困ります。たとえば、太陽はどう? メキシコが晴れていれば、その分、日本は損をしますか。貴方が太陽を好きになったか、扇風機を好きになったかの差です。

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[2015/12/29 18:36] | おすすめの本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
時間がなくて本も読めません
塩野男たち

☆前と同じ公園の、枯れている紅葉。

 まあ、意外なことであるのか、まっとうなことであるのか、京都にはかぐや姫が合う。竹取物語ではなくて、南こうせつと、の方である。それから草枕(朗読)も、やっぱりいい。
絵を描かずに旅をしている画工の話だ。
坂道でなくても、考えることばっかり。

 えっと、とりあえず久しぶりにお薦めの図書。
どうも前に出したか覚えていないけど『男たちへ 塩野七生』より。


 人間というものは、いかに心の中で思っていても、それを口にするかしないかで、以後の感情の展開がちがってくるものである。いったん口にすると、誰よりもまず自分が聞くことになる。どれくらい真実がふくまれているかどうかは、問題ではないのである。口にして以後、真実がふくまれはじめてくるのだ。

 「口には出さなくても愛している」とか「言葉を超えるほどの愛」とかいう言葉を耳にすると、私は、哀れみさえも感じる。そんなことは、外側を変えることによって内側を変えるという、人間相手にしか通用しないこの愉しみとは修正無縁な、感受性の鈍い人々だけの話と思うからである。


 女が少しでも美しく見せたいために、あらゆる努力を惜しまないのは、正当な理由がちゃんとあって、ために真剣な話なのである。だが、男は、真剣な態度で望むことは別にあるのが、男というものだ。所詮、われわれ女は、身だしなみ意外に真剣勝負をするものを持っている男を欲しているからである。つまり、着こなしに気をつかうことなど、男にとっては遊びにすぎない。

 めんどくさいということは、おしゃれだけでなく、すべてにつながることであり、また、めんどうだからというのは、感受性や好奇心の欠如を、カムフラージュするのに使われることが多いからである。時間がなくて、という言いわけとよく似ている。私は、時間がなくて本も読めません、という弁解を、絶対に信じない。


 私にとって厳正に平等な人間関係は、同姓である女との間にしか存在しない。男との関係となると、まったく一つの例外もなく、不平等になる。いや、なるのではなく、私がわざと、そういう関係にしてしまうのである。ほとんどの場合、私の方が下なのだ。男に私淑したり兄事しているほうが、人生はよほど多様になり深みを増し、そして楽しくなるのではないかと思う。

 男が女に魅力を感じるとは、所詮、その女を抱いてみたいという思いを起こすことであり、女が男に魅力を感ずるとは、その男にだかれてみたいと思うことに、つきるような気がする。頭の中身も容姿も、この種の健全なる欲望を補強する程度の働きしかない。健全で自然で、人間の本性にもっとも忠実なこの欲望を刺激するのが、人のもっている魅力というものだろう。インテリ男がセクシーでないのは、補強する程度の働きしか持たないものに、最高の価値をおく生き方をしているからである。

 われわれ女が男から性的対象と見られて、なにがいけないのであろう。男も女も、相手を性的対象として思うだけであったら、性的にも続かないものなのだから、心配することはないのである。


 優しい若者を、私は若者だと思わない。若者が優しくあれるはずはないのである。すべてのことが可能だと思っている年頃は、高慢で不遜である方が似つかわしい。やさしさは、悲しさでもあるのだ。そして、忍耐を持って、他者に対することができるようになる。

 成功する男とは、まず第一に、体全体からえもいわれぬ明るさを漂わせる男だ。たいていの人は何かしら苦悩をかかえて生きている。その人々にとって、明るさを持つ人は、それ自体ですでに救いなのである。人は、不幸な人には同情はしても、愛し、協力を惜しまないのは、幸運に恵まれた人に対してである。

 われわれは知っている。紅きくちびるの乙女時代に、なんというばかげた恋しかしなかったかということを。恋は、明日の月日はないものを、がわかる年頃になって、はじめてできるものではないだろうか。

 わたしたち女は、男を尊敬したくてウズウズしているのである。男たちよ、その期待を裏切らないでください。そうでないと、わたしたちの愛を、誰に向けていいのかわからなくなります。




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[2015/12/11 17:21] | おすすめの本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
世界及第長編小説
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 (自分でも不可解なことだが)村上春樹の「1Q84」に感動してから、小説の時代に入り、3年ぐらい前から読み始めた長編小説も、だんだん読みたい本がなくなってきたので、まとめてみようかなと思う。なぜだか1冊に収まる程度の短い小説にはほとんど興味がわかない。モームの世界十大小説に対抗するわけではないので、(重大でもないし)、たいていの長編小説は退屈だと感じるので、世界及第長編小説としたい。まあ、私が読んだ範囲のわずかな作品の話だけれども。モームのお薦めもほとんど読み直してみたが、(残念ながら)重なるものはない。

 ここ20年ぐらいの間は、「源氏物語」がいちばんだと思っていたが、読み返してみたのと、なんといっても「宇津保物語」の衝撃のせいで、いくぶん下がった。再読した「戦争と平和」も、改めて感じた部分も多いが、現在の小説としては余分なところがありすぎると思う。「アンナ・カレーニナ」も4読したが、同じような印象。ドストエフスキーでは、「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」「白痴」の3作とも好きであるが、代表して「白痴」に。


「宇津保物語」作者不詳
「ドン・キホーテ」ミゲル・デ・セルバンテス
「白痴」フョードル・ドストエフスキー
「パルムの僧院」スタンダール
「危険な関係」ピエール・ショデルロ・ド・ラクロ
「失われた時を求めて」マルセル・プルースト
「赤頭巾ちゃん気をつけて」庄司薫
「ねじまき鳥クロニクル」村上春樹
「わたしを離さないで」カズオ・イシグロ


 断じて人にお勧めなんかしないけど、心配なのは「赤頭巾ちゃん気をつけて」である。長編と言うほど長くないし、たぶん6回ぐらい読んでいる。だから公平ではない。あまりにも完璧に心の襞に吸い付き、これしかありえない表現だと感じる。ということは、同じ時代を生きた個人的な共感部分が多くて、違う世代の人には受け入れられない作品である可能性がある。だから読まなくていいです。


失われた時を求めて
赤頭巾ちゃん気をつけて
わたしを離さないで
白痴
悪霊
カラマーゾフの兄弟

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[2015/09/25 14:53] | おすすめの本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
職業としての小説家
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 私は本屋さんや図書館には、行かない日の方が少ないぐらい行っています。週のうち5日ぐらいは、どちらかに立ち寄ります。欲しい新刊を確認したり、予約したりしますが、実のところはほとんど図書館から借りてきて読みます。それでも年に何十冊かは買います。それはすでに借りてきて読んで、気に入った本を買うのです。

 読んでいない新刊を買うと、ほとんどの場合後で後悔します。レコードなどもそうです。自分には見る目がない、また無駄なものを買ってしまったと思うのです。ですから本屋さんで見つけて、いきなり新刊を買うというのは、年に一度ある程度のめずらしいことです。

 今までの経験から、村上春樹の大長編またはエッセイ集だったら買っても後悔しないと思っていたので、本屋に入って真っ先に目についたこともあって手に取りました。「アフターダーク」とか先日の「色彩を持たない~」などの短い作品は所有しなくても気になりません。たまたま図書館で見つけたら、読んでもいいかなと思うぐらいです。

 いろいろな、たとえばインタビュー集やマラソンについてのエッセイなどでも小説作法について書いていますが、この本は、真正面から、本人の小説家としての生き方を書いています。以下その『職業としての小説家 』の中から、なにごとにも適用できそうなことを。これはバラバラの部分の寄せ集めで、つながっている文章ではありません。




 僕にとって長編小説こそが生命線であり、短編小説や中編小説は極言すれば、長編小説を書くための大事な練習場であり、有効なステップであると言ってしまっていいのではないかと思います。

 僕にはひとつ個人的ルールがあります。それは「けちをつけられた部分があれば、何はともあれ書き直そうぜ」ということです。批評に納得がいかなくても、とにかく指摘を受けた部分があれば、そこを頭から書き直します。指摘に同意できない場合には、相手の助言とは全然違う方向に書き直したりもします。

 なぜかと言えば、正気の人間には長編小説なんてものは、まず書けっこないからです。ですから正気を失うこと自体には特に問題ありませんが、それでも「自分がある程度正気を失っている」ということだけは自覚しておかなくてはなりません。そして、正気を失っている人間にとって、正気の人間の意見はおおむね大事なものです。

 読んだ人がある部分について何かを指摘するとき、指摘の方向性はともかく、そこには何かしらの問題が含まれていることが多いようです。たとえ「これ完璧に書けているよ。書き直す必要なんてない」と思ったとしても、黙って机に向かい、とにかく書き直します。

 ここで僕が言いたいのは、どんな文章にだって必ず改良の余地はあるということです。本人がどんなに「よくできた」「完璧だ」と思っても、もっとよくなる可能性はそこにあるのです。

 つまり大事なのは、書き直すという行為そのものなのです。作家が「ここをもっとうまく書き直してやろう」と決意して机の前に腰を据え、文章に手を入れる、そういう姿勢そのものがなにより重要な意味を持ちます。それに比べれば「どのように書き直すか」という方向性なんて、むしろ二次的なものかもしれません。多くの場合、作家の本能や直感は、論理性の中からではなく、決意の中からより有効に引き出されます。

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[2015/09/19 17:52] | おすすめの本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
この世はウソでできている
池田清彦


 池田清彦さんの本です。以前どこかで読んだところでは、母にこう言われたらしい。「社会へ出たら本当のことを言ってはいけない」長い間そうしていたのだが、もういい年になり、先も短いだろうから、本当のことを書こうとおもう。(記憶違いかもしれない)そんなわけで、こんなエッセイ集を数冊出している。

 詳しく書くのははばかられるので、せめて本の目次などでも頭の隅にとどめておきたい。主に「アホの極み」より。これでも減らした。


すべての原発が危ないのだ。
科学は政治と関わるとデタラメになる。
大地震だって想定内だよ。
ウソをつき続ける専門家。
アメリカには104基もの原発があるのだよ。
「節電」という怪しい儀式。
大地震を予知したり、温暖化をコントロールしたりはできない。

CO2削減などにかまけている暇はない。
地球温暖化を巡るウソをいまだに信じ続ける人々。
日本だけが騙されている。
多大なコストを払ってまで無人島を守って得られるものは何?
外来種が日本固有の在来種を滅ぼしているというウソ。
法律が増えれば増えるほど税金も借金もどんどん増える。

憲法改正などアホの極み。
日本がギリシャになる日は近い。
日本はネズミ講国家である。
人口が減るのは喜ばしい。
ウソがホントを支配している、貨幣経済。
厚労省なんて潰してしまえ。
健康調査や健康診断という、おためごかし。
大学の数はなぜ減らないか。
自己家畜化した人間は、コントロールされやすい。

英語がぺらぺらでもバカはバカ。
お金は幻想、消えても当然。
取り返しがつくことなどない。
どんな学説もひっくり返る。
自分の考えを変えない人はアホだよ。
正義と健康が一番ヤバイ。
言葉を消しても差別は消えない。
心の底で世間はナメていよう。

アホの極み 3.11後、どうする日本! ?
この世はウソでできている
「本末転倒」には騙されるな 「ウソの構造」を見抜く法
同調圧力にだまされない変わり者が社会を変える。

 私はまだ長生きするつもりなので、
「京都の市バスは一見さん拘束装置」なんてことは書かないことにしている。

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[2015/09/16 17:33] | おすすめの本 | トラックバック(0) | コメント(1) | page top
男のための自分探し2
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「男のための自分探し 伊藤健太郎」という本は、確か4冊買って、人にさしあげたり、数カ所に置いてある。ブックオフの100円コーナーでも10冊ぐらい見たことがあるので、そこそこ売れて、かつ、すぐに売り払われてしまうような本なのであろう。いったん読んだら、売ってしまう人が多いのかもしれない。私は折にふれ、何度か読んでいるのに。

 以前も、お薦めの本で出したような気がするが、忘れたので、今、気になったところを書き出します。


 人間は、本当のことを知りながらも、都合が悪ければ、知らないことにしてしまいます。
 「私」と「私の体」は別だからです。「自分がしたいこと」と「自分が望むこと」とは、全く別なのです。

 雄は、ライバルを殺そうが、自分が死のうが、とにかく遺伝子を次世代に伝えたい生き物なのです。命よりも女がほしい、これが男の本能でしょう。男をさんざん利用したあげく捨てるのは、女性ではなくて自分の精子です。遺伝子に乗り捨てられていく、セミの抜け殻のような肉体を喜ばせるだけで、一生を終えてよいのか。


 沈没すると定まった船の上で、勝った、負けた、恋した、儲けた、殺したと騒いで、いったい何の意味があるのでしょう。しかしすべての人間は、そんな船の乗客なのです。最後は必ず、死の岩礁に激突して大破します。

 私たちは死ぬときに初めて孤独になるのではありません。生まれたときから、ひとりぼっちだったのです。自己責任の孤独な旅が、人生です。死を見つめることは、真実の自己を知って、単なるごまかしではない、本当の幸福になるための第一歩なのです。

 パスカルは、あと一週間の命となったときに、しなければならないことこそが、80年ないし100年の人生すべてを懸けなければならないことであり、人生の目的だといっています。死を前にしたら何の意味もなくなってしまうものは、最初から意味のないものだったのです。

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[2015/07/31 20:01] | おすすめの本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
がんばらないけど 2冊。
がんばらない



 しばらく雨の日が続いたので、洗濯物などのそばで除湿器をつけ、もちろん寝る前には消して寝たのです。朝になったら、のどがヒリヒリしていて、だんだんひどい花粉症みたいになって、風邪みたいになってきました。

 しかし、熱の出る風邪をひいたとしたらば、15年ぶりぐらいです。たまにはこんなのも体のためにいいかなと思って汗をかいてのんびりしていました。どこかのCMで使われていた、吉田拓郎の「がんばらないけど、いいでしょ」「わたしなりってことで、いいでしょ」という曲を聴きながら。


 もう日本はおしまいです。で始まる、間違った経済大国になってしまった日本についての悲観的な本です。やりたいこともないのに、頑張ってきたみなさま。もう十分、日本人は幸せだったでしょう。

『下りる。日本に生まれた不運をあきらめるために ひろさちや』より短めに。

 日本の商社の人間がインドにきて、漁民たちに講習会を開いた。このような道具を使うと、現在の3倍もの魚が捕れると教えました。すると、インド人の漁民から質問がありました。
「3倍も魚が捕れると、われわれはいったいどうなるのだ?」
日本人の予想もしなかった質問です。
「そうなればお金が儲かるではないか」
「ところで、お金が儲かるとどうなるのだ」
またまた日本人を驚かせる質問です。
「金が儲かれば、暇ができるではないか」
「われわれは、その暇をどうすればよいのか?」
「そうすると、のんびり魚を釣っていればいい」

もう一度、インド人の知人を訪ねていったときの話。
「父親が病気をしたので、6ヶ月間、会社を休んだ」
「よく首にならなかったね」
「日本では、6ヶ月会社を休むと首になるのですか?日本人は、5ヶ月ぐらいしか休めないのですか?」と言います。
彼の父親は、6ヶ月後に死亡しました。その6ヶ月の間に医師が往診にきてくれたのはたったの二度。これは日本人の場合と正反対です。日本人の場合は、病気になった父親はすぐに入院し、医師や看護師が毎日病人を看てくれます。けれども、その6ヶ月の間に、息子が見舞いに行くのはたったの二度でしょう。
では、インド人と日本人と、どちらが幸福でしょうか?


『なまけることの幸せ ガーデルマン 』より目次だけ。
体のコンディションと健康を保つためには、何もしないことです。
フィットネスは本当に報われるのでしょうか。
運動嫌いは生命力を節約します。
食事がエネルギーを消耗させる。
過剰なやる気が、寿命をすり減らす敵。
休暇中なら傷も早く癒されます。
健康のはじまりは、なまけることと、何もしないこと。
ナンバーワン・ストレス・ファイターは笑うこと。
よく眠る人ほど長生きです。
あなたがいなくても、地球は回ります。


 ついでに元東電原子炉設計者が書いた、「電気がなくても、人は死なない」という本もおもしろかったです。
のんびりいこうよ、俺たちは。あせってみたって、同じこと。
『気楽にいこう マイク真木』という歌もありましたね。
やりたいことがある人は、頑張ってもらいたい。

下りる。
なまけることの幸せ
電気がなくても、人は死なない。

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[2015/07/12 14:15] | おすすめの本 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top
何かを待っている。
大地震を待つ


 久しぶりに池田晶子の本から。2006年に出た哲学エッセイ本だが、この中に「大地震を待つ」という一文がある。もちろん東日本大震災よりも前に出たものだし、本人は数年前になくなっている。

  自分というものは「わからない」のではなくて、自分というものは「ない」。ブッダによれば、縁起によって役割が与えられているだけだ。


以下『知ることより考えること 池田晶子』より

 大地震で死ぬかもしれないというのは、それなりに不安ではある。けれども冷静に考えてみれば、地震によらなくても人は必ず死ぬのである。

 生きているということは、常にかならず危険なのである。自分はいつまでも生きているべきだと思っていて、思わぬことが起こるものだとは思っていない。思わぬことが起こると腹を立てるのである。しかしこれは間違いである。人生が危険なものであるのは本来であって、べつに社会のせいではない。他人が何をするかわからなければ、自分だって何をするかわからない。

 人は自分の人生は、自分の意志で、自分で選択して生きていると思っているが、そんなのは大ウソだ。何もかもが意志的に人為的に統御できると思っているのが現代文明である。この根本的大間違いの上に築き上げられてきた近代巨大都市である。しかし、人間の意志など知ったことか、自然は一撃でそれを壊滅させるだろう。


 しなければならないことなんか本当はないと、人はどこかでわかっている。だから、しなければならないことがあると、思おうとしている。だから、生きなければならないと思うことにして、仕事をし、闘争し、あれこれの苦労をし、それでもって人生だと、こう思うことにしている。いかな苦労でも、何もないよりはマシなのである。

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[2015/06/21 18:10] | おすすめの本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
イタリア・ルネサンス美女画集
イタリア・ルネサンス美女画集 巨匠たちが描いた「女性の時代」 
    池上 英洋/監修・著 小学館

 この画集には、鮮明な画像でめずらしい絵が載っている。ボッティッチェリもティツィアーノも新鮮だ。有名な「モナリザ」も、他で見たことがないぐらい鮮明に写っている。手前に出ている左肩の、上からはおっているものが透けて後の風景が見えている。

 そして、他では見たことのないラファエロの「聖母子像」が載っていた。ラファエロの絵は、本物を見ても古く、ちょっとアルカイックというか冷たい「聖母子像」だと思っていたが、ここではもうちょっと後期の画家が描いたのかと思われるほどに人間くさい顔があったので驚いた。下から覗いている天使も愛嬌がある。


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 最後は違うけど、ベッリーニ。
イタリア・ルネサンス美女画集: 巨匠たちが描いた「女性の時代」

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[2015/03/19 17:48] | おすすめの本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
パルムの僧院 スタンダール
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 「パルムの僧院」図書館から検索して最も新しい本を借りた。2005年出版の新潮文庫。その次はというと、1995年以前の本はたくさんあったのだが、新しめのはこれだけだった。改版されて新しそうになっていたが、大岡昇平訳で昭和46年(1951年)初版であった。60年も前だ。ちょっとした古典の名作をさがすと、まったくもう、これである。

 それで、今まで読んだ文学紹介の本などから考えるに、最初の方は歴史的なことでつまらないが、後半ものすごくおもしろくなるというのが、おおかたの評判のようだった。ところが、ずっと同じようにおもしろく読めた。なにしろ3日で読めた。おもしろくなくても、同じぐらいで読むことはあるけれど、苦もなく読めるにこしたことはない。モーリス・ルブランやガストン・ルルーのようにどんどん読めた。バルザックよりもずっと読みやすい。

 以前、「赤と黒」を読んだときは、「ジェーン・エア」と続けて、3日ずつ、6日で2冊読んだ。だいぶムリして読んだような気がする。それでこの「パルムの僧院」は読んでいないと思っていたが、塔に幽閉されるところが出てきて、読んでいたことに気づいた。いつ読んだのだろうか、覚えていない。仕事もしない、恋に明け暮れる貴族のダメ青年を、権力者や大僧正や一番の貴婦人が、養護して尻ぬぐいばっかりしている、ちょっと反発したくなる話だ。

 引き続いて、「赤と黒」も半分読んだ。こっちは、明らかに読んだはずなのだが、始めて読むようなお話だ。続けて読むと、「パルムの僧院」ほとんど同じ構図だと思う。美男子だが性格の悪い、ワガママで田舎者の若者に、高貴な美女が入れ込むのである。半分までだが、恋愛論を小説にするとこうなっちゃったんだろうか。

 引っぱられるように苦もなく読めた代わりに、気持ちが引きつけられるような魅力的な人物はいないし、ものすごく盛り上がることもない。主人公は嫌なヤツだ。それなのに気分が良いのは、最近読んだ古典小説ではめずらしく、最後に悲惨な結末がやってこないことだ。あんなに好き勝手生きて、平穏に死んでいく。トルストイも手本にしたと言われる、最初の戦闘場面は秀逸だと思うが、これは名作なのだろうか。読みやすい新しい訳でも出れば、おすすめなのだけれど。


パルムの僧院 (上) (新潮文庫)
赤と黒(上) (光文社古典新訳文庫)

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[2015/03/08 19:03] | おすすめの本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
京都人の密かな愉しみ
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 ここ数年、京都の人が優しくなったような気がしている。
 お店にありがたくないシングルの客なのに、奥の眺めの良い席が空いたからといって移動させてくれたり、頼んでないコーヒーをつけてくれたり、となりにすわったご夫妻が、人のいない名所を教えてくれたり。京都が変化したのか、私が変わったのか。十年以上、毎年訪れている成果があらわれて来ているのか。京都人というのは、よそものを受け付けないのはもちろん、友人や近所の人までにも壁を作ったつきあいをしている、という話もある。年始にとてもいい番組があった。

「京都人の密かな愉しみ」Le Charme discret de les gens de kyoto BSプレミアム

 京都を愛好し長年研究している、イギリス人学者の視点から見た、京都人の魅力と不思議を写し出した、ドキュメンタリーっぽいドラマです。ドナルド・キーンさんが目に浮かびます。私が最初に見たのは2時間ものでしたが、先週の再放送では「作法編」「縁結び編」「秋から冬の味覚編」「代替わり編」と、30分4本立てに再構成されていました。
 主筋となる内容は、「300年近く続く大きな老舗菓子屋の若女将」と「洗い屋職人の息子」が、家業を継ぐのに抵抗があり、自由に生きる方向を選ぶか葛藤したが、結局は伝統を受け継ぐ立場となる。

 ほとんどの人は、自分は自由に生きていると思わされているだけで、縛りがないと生きていけない。「個性を尊重する」とか「自分探し」などといった最近の風潮に釘を刺す養老孟司さんに言われるまでもなく、「自分に合った仕事」なんてものはないし、十年二十年とひたすら師匠の真似をして、それでも折り合わないのが「個性」というものでしょう。

 京都人は、他人に迷惑をかける事を極端に嫌う。だから必要とされる仕事を絶やさないようにする。それでいて人を侵さず、他の干渉を嫌う。京都で生活する暗黙のルールを、子供の頃から叩き込まれている。円滑なルールを乱すよそ者は受け入れない。

 就職先の内定が決まったので東京へ出たいと頼む職人の息子。当然ひどく反対されると予想された父親の返事は「おまえの人生なんだから、おまえの好きなようにしていい」拍子抜けした息子にさらに「おれには出来なかったからな」と。父親には、息子に継いでほしいという気持ちと、こんなつらい思いをするのは自分の代で終わりにして、息子には自由に生きてほしいという気持ちがある。

エンディングに「京都慕情」が流れていた。
(オリジナルの渚ゆうこではなくて、ゆったりと武田カオリが歌っているが、とてもいい)

 あの人の姿なつかしい 黄昏の河原町
 恋は、恋は弱い女を どうして泣かせるの
 別れのつらさ知りながら
 遠い日は二度と帰らない 夕やみの桂川

 京都の家業を継ぐほど素敵なことはない。

京都人の密かな愉6

京都人の密かな愉7

京都人の密かな愉5

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[2015/02/15 17:57] | おすすめの本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
脳はいつでも元気いっぱい
京都人の密かな愉8


 年始の、嵐が丘は別物として、恐るべき子供たち、青い麦、肉体の悪魔、ドルジェル伯の舞踏会、とフランス心理小説が続いて、危険な関係に入った。とても面白かったが、どれもこれも悲惨な状況で終わる。

 危険な関係は、地の文なしの手紙のやりとりだけという変わった文学で、とても刺激を受けた。しかし、あんなに人間関係に用心深く賢い主役二人が、最後にちょっとした諍いで破滅するというのは唐突すぎるように思う。作者の事情で、急に結末をつけなければいけなくなったのだろうか。ドン・ジョヴァンニは、むりやりにでも地獄に堕ちなければ、読者が納得しないのだろうか。


 『海馬 脳は疲れない 池谷裕二・糸井重里』という本は、家に2冊ある。もともとは図書館で借りてきて読んだ。その以前借りた本が、昨年末の図書館祭で払い下げになっていたので持ち帰ってきたら、家に文庫本が一冊あったことに気づいた、というわけだ。たいてい図書館で借りてきて読んでから、気に入ったらあとで買うというふうにしているのだ。

 再度読んでみて、やっぱり覚えておいた方がいいようなことが書いてあったので、書き出しておこうと思う。今年の大河ドラマは、吉田松陰が出てくるみたいだ。見ないけど。あんなに気合いを入れて、脳をめいっぱい使って真剣に生きていければ、個人の才能とか向き不向きに関係なく、ひとかどの事が成し遂げられるのではないか。

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 痴呆のような病気をのぞけば、「年を取ったから物忘れをする」というのは、間違い。子供の頃に比べて、大人はたくさんの知識を頭の中に詰めているから、そのたくさんのものの中から知識を選び出すのに時間がかかるだけ。

 生きることに慣れてはいけないんです。慣れた瞬間から、まわりの世界はつまらないものに見えてしまう。同じことの繰り返しは脳をダメにする。

 体が耐えられないほどの力を加えないために、筋肉にも脳にも必ずストッパーがあります。ストッパーを外して、一つ違う局面に行くことを何度かやると、次に出来ることの可能性が増えます。予想以上に脳は使い尽くせる。やりすぎてしまった人が天才。

 脳はわからないものがあるとウソをつく。つじつまを合わせようとする。脳は見たいものしか見ない。寝ることで記憶が整理される。

 海馬にとっていちばん刺激のあるのは、空間の情報です。旅をすることは脳を鍛えます。ミスをしたサルの方が記憶の定着率がいいのです。失恋や失敗が人を賢くする。

 やり始めないと、やる気は出ない。やっているうちに、集中力が高まって気分が乗ってきます。やる気が出ない場合でも、やり始めるしかないのです。

 考えごとをしていて、疲れを感じたときは、脳が疲れているわけではない。「30分休憩を取って」という考え方をしない方がいい。目の疲れだとか、同じ姿勢をとった疲れを補う。「いったん忘れる」というのが一番よくない。いったん忘れたりしないで、考えたまま違うことをするのがいい。

 脳はいつでも元気いっぱいです。ぜんぜん疲れません。寝ている間も脳は動き続けます。一生使い続けても疲れません。

 脳は、ひとつのことを決めつけたがり、なおかつ安定化したがります。自分が言ったことに対しても、安定化したがります。良いことを言うとそのとおりになる。悪いことを言ってもそのとおりになる。強い力で宣言すると、言葉が走っていって、新しい回路を潮流のように生み出してしまう。


海馬/脳は疲れない


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[2015/02/12 20:55] | おすすめの本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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