
ヴェネチア 2005.2
よく神童とか天才ヴァイオリニストなどということがいわれますが、音楽家では、これが当たり前なのであって、音楽家というものは、人に教えられ、だんだん何かがうまくなったから音楽家になったというぐあいにいくのではなくて、最初から音楽が好きで、音楽が好きでたまらないというので、それではピアノを弾いてみろ、ヴァイオリンをやったら、という具合に訓練を受けているあいだに大人になってゆくというにすぎない。
逆に、だから、ピアノを習ったからとか、音楽学校を卒業したからとかで、音楽家になるというのではないのです。だから、芸術家であるかないか、それは、まず、いくつの時とはっきりいえないような幼いときに、もう決まっているようなものです。ただ、それから、立派な芸術家になるかどうかはまったく別の問題です。
人の生きてあるところに芸術あり 芸術は、基本において、人間が生活しているところ、あるいは生活を愛し、少しでもそれを居心地の良いものにしようと努力する人間のいるところ、どこにも生まれてくる可能性を持っているといって、過言ではないでしょう。 逆にいえば、芸術は、人生があって、その他に、どこか別のところから、そこに加えられてくるといったものではない。私たちが生きているという、そのこと自体の中にふくまれている。
特定の条件のもとで生まれたものでありながら、その条件とはちがう土地、時代の人間に、直に語りかけ、歌いかける力をもっている。
たとえば、モーツァルト。彼の音楽は最も理想的な高さに到達していた、と万人が万人、考えている。その形式上の完璧さと表現の正しさにおいて、彼の芸術は間然とするところのない「美の規範」を実現したものといってもよろしい。そのうえ、彼の作品は、後鳥羽上皇のいうところの「実ありて、しかも悲しびをそふる」芸術として、今日にいたるまで、聴くものを感動させずにおかない。
絵であれ、詩であれ、音楽、演劇であれ、つくった人、演じる人たちだけでできているのではない。その人たちから発信される記号をうけとり、それを自分にとって意味のある情報に翻訳しなおす公衆の想像力があってはじめて、完成し、一つの全体になる。
物には決まった良さはなく、 人にはそれぞれ好き嫌い、 お前の舞う姿が良いとのことだが、 わしは好き、お前のじっとしているとき。 (白楽天の詩、孫引き)
「みんな君の立ち姿が、ことのほかあでやかでよろしいという。みんなは、君が舞台で舞っているすがたを見なれているのだから。しかし私は、私のそばにいて君がじっとしてくれているとき、そのときの姿がいちばん好きなんだ・・・・・」こんなふうに読むのもできなくはない。
白楽天の詩、モーツァルトの音楽が、遠くでつくられたにもかかわらず、私たちにすぐピンとくるのも道理で、そのピンとくるはたらきは、作品から呼びかけの信号を受け取った私たちの心の働きにほかならないのです。
芸術は人生にどう役立つのか? 役立つも役立たないもない。芸術は人間の生きている、その生き方そのものの中に根を張っているもの、生きるということ自体の内容の一部に他ならないのです。だから芸術が人生にどう役立つか? ときくのは、人間の身体をみて、その手や足、あるいは心臓や肺臓について、何の役に立つのか? ときくようなものだと、私は思います。 テーマ:文明・文化&思想 - ジャンル:学問・文化・芸術
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