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信長は案外いい人
織田いいひと

 もうすでに信長関連の本は相当数読んでいるはずで、歴史もののテレビ番組も欠かさず見ているはずなのだ。だからいまさらアッと驚くような本に当たるとは思わなかった。
「大間違いの織田信長 倉山満」

 信長は天才ではなくて、信義や部下や権威を大切にし、いかに努力と心遣いでのし上がってきたか。だから現代人の生き方にも役立つのです。秀吉や家康と比べても、将軍や天皇に和議を結んでもらったりしていました。

 もちろん何となくそう思ってはいたのですが、織田軍団が戦争にめっぽう弱い、戦国最弱だということが、はっきり書いています。武田・上杉とは絶対に戦わないように友好関係を保っていました。アメリカには絶対服従の土下座外交に近いものがあります。戦えば負けることはわかっていました。

 というように、信長は常識的な普通の大名であったのだが。ただ未来の展望をきっちり持って、足利氏のぐずぐず政権を、立て直したかったのではないか。目指すは足利義教。というような内容の楽しく読める本です。


 信長はごく初期のころ、500人ぐらいの精鋭部隊で、尾張をまとめているときは、自分が先頭を切って敵陣に切り込んで行って、相手を圧倒しました。上杉謙信のようです。その後は、数を集めた傭兵に頼るようになりました。

 信長の偉いところは、桶狭間の戦いのような戦は二度としなかったことです。成功体験を忘れられないで繰り返すのが普通の経営者です。これ以降の信長は、敵に倍する兵力をもって戦いを仕掛け、よく負けました。味方にも、敵にもよく裏切られ、かつそれを許しました。

 よく足利幕府を滅ぼしたと言われますが、京都から追い出しただけです。それまでだって将軍が京都から逃げたことは、20回くらいあります。豊臣政権の終わりころまで、足利義昭は鞆で、政権を維持していました。松永久秀や明智光秀みたいに、上司を殺したりしないのです。

 本願寺や比叡山も、何度も約束を破られて、これでは天下がまとまらないので、しょうがなく叩き潰しに行ったというところです。本願寺の蓮如の方がどれほど残酷でしょう。信徒が死のうが、徹底抗戦です。この頃の仏教団体は、信仰を笠に着ているからでしょうか、敵対勢力を皆殺しにするなど、戦国大名よりも非情でした。

 武田信玄は強い。なにしろ川中島で、上杉謙信と真っ向勝負して、たった2倍程度の兵力で、被害も多かったけれど、謙信を越後に引き返させたのだ。上杉謙信はさらに別格で、この当時の最強軍団である武田・北条と100回くらい戦い、ほとんど負けがない。

 ただ一度の、織田のかなりの全軍と謙信の戦い。信長は行かず、秀吉は離脱し、柴田勝家が大将で戦った。いや、まともな戦いもできずに、資料にも残せないぐらいに、上杉の大量虐殺のように負けた。謙信が死んだら、上杉はただの小大名。

 なんだか項羽と劉邦みたいだ。劉邦は、戦には必ず負けるが、だんだん味方が増えて、領土が増えてくる。項羽はたとえ十分の一の兵力でも勝つ。しかしやがて「四面楚歌」になる。自分を取り囲む敵兵隊の中から故郷の楚の歌が聞こえる、という状況になる。

 謙信も信長も、戦のたびに戦術を変えて、同じ戦いをしなかった。信長は何度も負けるが、何度目かには勝って、領土を広げていく。その領土拡張のスピードが速い。その跡を継いだ秀吉も、さらに速い。

 武田信玄は、生涯をかけて、信濃一国を取っただけに近い。これだけの兵力がありながら、衰退した今川領駿河だけを取るのに何年もかかっている。弱小だった徳川も潰せない。逆に言うと、今川や徳川の家臣たちは、たとえ武田信玄が来ても抵抗するということだ。京都で天下に号令なんて、できるわけがない。

 三方ヶ原の時は、家康に、お前はカッとなって突撃するからいけない。信玄が来ても籠城して戦うな、と言っています。勝頼もひどく恐れていて、信長に戦う気はありませんでした。家康に、徳川は何度も織田のために戦ったのに、徳川家が危機の時に助けてくれないようでは、武田について尾張に攻めていきますぞ!と脅され、しぶしぶ長篠の戦に参戦しました。信長は努力と忍耐の人です。

大間違いの織田信長


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[2019/06/17 18:49] | 歴史の話 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
義経が悪い。
義経悪1s


 悲劇の主人公「源九郎義経」について考えていたら、思いついたことがある。たぶん歴史の本で厳しく指摘しているのを読んだことはない。源頼朝はもちろん極めて悪い人であるが、非情な悪人でないと天下など納められない。義経は史上誰もやったことのないと思われる悪事をはたらいている。征夷大将軍を殺したとか、東大寺大仏殿を焼いたり、後白河法皇を幽閉したり、後鳥羽上皇を島流しにしたわけではない。

頼朝が「安徳天皇や建礼門院に危害を加えるな」という命令を出していたにもかかわらず、現天皇である「安徳天皇」を殺したのである。三種の神器も水没。天皇を新しくして、新しい天皇から、上皇を流す命令を出させたりする手はあったが、臣下が天皇を殺した例は他にないのではないか。当然このときは、錦の御旗は(そんなものあったかどうかだが)平家の側にある。

 天皇を平家から奪還してから、平家を攻めるのが常道だ。とにかく勝てばよかったのだ。こういう考えだから、勝てたのだろう。その後頼朝と対立するが、英雄であるべき義経に味方する武士がほとんどいなかったのも当然だと思う。

 義経と同じように可愛そうな、先に平家を都から追い出した木曽義仲もいる。全く源氏というのは、身内同士の闘いがひどい。どっちにしても、優れていればいるほど、頼朝に殺されるに決っている。頼朝が生きているのは、清盛の優しさがまねいたことだ。平家政権は良かったような気がするな。

 「国王は将軍の名声を喜ばない」天下が収まれば、有力な将軍は殺される。そうしなければ、足利高氏とか、いつまでも安定しない室町幕府のようになる。そのように天下を取った頼朝であるが、武家政権に必要なくなった源氏将軍は、あっという間に北条氏などに粛清される。北条というのは苗字で、姓は平です。源頼朝と平政子の夫婦です。平家にあらずんば人にあらず。

 単なる偶然だと思うが、鎌倉幕府滅亡時の北条高時になるまで、北条氏はなかなか優れた政治を行った。(足利高氏の高は、高時の字をもらっている、その後、後醍醐天皇の尊の字に変える)政策を誤れば、弱小北条氏なんて関東武士団に潰されていただろう。

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[2019/05/15 17:29] | 歴史の話 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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