絵画を見るということ 山岸健
絵画山岸
らくだを見るということ チュニジア2010

絵画山岸2



 「絵画」は一瞬のうちに視力を通してものの本質を君に示す。と言ったのはレオナルド・ダ・ビンチである。明らかに絵画は、見ることと視力のドラマである。絵を描くこと、絵を見ること、こうしたことは人間と世界が、様々な現実が姿を現すこと、いろいろなものが見えてくることなのである。 絵画とは延び広がりゆく視線なのであり、目と手の浮上、身体と人間の現前なのである。すべての芸術は、目という鏡、に基づいている。

 絵画とは恐るべきほどに深いまなざしだ。火を噴くばかりに激しい見る行為だということが、ベラスケスの「ラス・メニーナス」を見ているときに体験される。オルテガは、「アルタミーラの画家は描くことによって魔術を行っていたのであり、ジョットーはフレスコ画を描きながら祈り、ベラスケスは絵画そのものを描いたのである」と述べている。それは目で見ることができる人間の叫びなのだ。


 画家は限りなく広く深く見るのである。眺められる風景の背後にまでまわりこむような状態で風景に近づき、風景の基底へと降りていき、自分自身と風景を一体化させる。だが、やがて独自の仕方で風景と距離をとるように努めて、オリジナルな表現のために努力を傾けるのである。見ること描くことは、そのように深く生きることであり、世界をこの上なく深く広く体験することなのである。

 セザンヌは色彩に目を見開いた人である。コンポジションにも並々ならぬ注意が向けられていたが、色彩的な理論に従うことが彼にとっては大切だったのである。セザンヌは頭脳の論理への服従を拒否している。彼はいつも「目の論理」と言う。文学的絵画はセザンヌの好むところではなかった。

 絵を見るとき、誰もが自分自身の身辺や日常生活の場面やさまざまな風景などを、全く新しい視点から、広々と深々と体験することになるのである。絵画体験は人生を生きる喜びに通じているのではないだろうか。
 絵を見るとき、あらためて、〈見ること〉を学ばない人はいないだろう。一点の絵は人々の身辺を明るく照らし出してくれる独自の光なのである。

 スケッチブックやノートに描かれた線、彩色された色の広がり、形の誕生-それらは描く人にとってはかけがえのない感動なのである。描くことは生きていることの、手応え十分な確認なのである。端的にいえば、絵画とは人間の自由なのだ。絵画ほど人々に光と彩りの中で自由を深く体験させてくれる人間の営みはないだろう。

 ひとたび絵画に魅せられたならば、おそらく絵画からは離れなれない。絵の魅力には尽きるところがない。絵を描く楽しみを覚えた人にとっては、描くことは生き甲斐になるのである。
 描くとき、ものが見えてくる。今まで気づかなかったものに気づく。すべてのものが生き生きとした表情を見せ始める。生活環境の膨らみが増し、空間も時間も、濃密に体験されるようになる。
 描くとき、まるで自分自身がよみがえるような思いがする。生きているということがありありと体験されるのである。私にとって写真は大切なものだが、スケッチブックに描かれた絵の迫力にははるかに及ばない。

絵は人間にとって救いなのである。人々は絵画によって明るいところに導かれたのであり、絵画によって進むべき道筋が明るく照らし出されたのである。絵を描くことは人生を深く生きることだ。

 タイトルは作品の添え物ではない。タイトルは、絵の指針であり、注目さるべき顔なのだ。どのようなタイトルであろうと、タイトルには画家のアイデンティティが息吹いているのである。

 セザンヌはモネを、太陽が沈むとき、それをさまざまな透明さに至るところまで追ってゆける唯一の目、唯一の手と呼んだが、絵画とは、いずれも唯一の目、唯一の手なのである。
 人間と時間と空間を出来るだけ具体的に豊かな表情で体験することは、人生の旅人である私たちにとってまことに大切なことだと思う。


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[2012/10/12 18:45] | 美術の本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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