写真をとるのは難しい 2
写真難2



『ぼくが猫語を話せるわけ』より 写真をとるのは難しい


 ぼくが、初めてカメラを人間に向けたのは、中学校二年の秋の遠足の時だったと思う。犬とコスモスですでに相当の挫折を体験していたぼくは、ここでほとんど決定的な打撃を受けることになった。ぼくは、相当の迫力を持つ美少女たちを含む(ぼくの中学校には、美人がとても多かったのだ)ぼくの友達どもをとりまくったわけだが、要するにうまくいかなかった。

 たとえばぼくは、ふだんはまっすぐに見つめることもははかられるような美少女を、写真とってあげよう、などと言って仲間といっしょにカメラにおさめ(もちろん、ピントはこっそり彼女に合わせて)、ホクホクして帰ってきたわけだが、さて出来上ってみるとどうだろう。たとえばぼくは、控え目でやさしいスミレの花のような美少女を写したつもりだったのに、写真の中には、虚栄心と自己顕示欲とうぬばれとで、ケパケバしい造花のように武装して笑っている見知らぬ女の子を見つけたりすることになったのだ。

     ぼくは写真がこわくなった。

 彼らの写真がよくとれていないことほ、彼らに責任があるのだろうか。それともとったぼくが悪かったのだろうか。いずれにしても、ぼくが彼らを変てこに写したという事実は、ぼくが彼らを傷つけたことに他ならない、といった感じをひそかに抱かせる何かを持っていたのだ。


 つまりカメラにしても、その「よく写しとる」という能力は、もちろんこれまで気づかなかった人間の新しい美と感動をとらえるにちがいない。でもそれほ同時に一方で対象を写し過ぎ、そして暴露し、あばき立て傷つけるという可能性を持っているのだ。つまりカメラは実はそれによって写された写真の如何にかかわらず、むしろその「可能性」において、すでに「ハシタナイ凶器」そのものと言わなければならない。


 そして、その難しさにも拘らず、ぼくたちが「よく写されよう」と努めるのは、ぼくたちほほとんど本能的に自分の醜さを人前にさらすことをハシタナイと感じるからなのだが、それほ、ぼくたち人間にとって、自分の醜さいやらしさほ、かならず他者の中の醜さいやらしさに対応し、従って自分の醜さをあらわに示すことは即ち他者の中の醜さ、人間一般の醜さをあばき出し、えぐり出してつきつけるという行為に他ならない、ということをぼくたちがひそかに知っているからにちがいないのだ。


 つまり、大衆とか社会とかいったものは、自らの醜さに気づかずにひたすらうかれ騒いでいる、といったそんな馬鹿げたいい調子のものではもともとない。ぼくたちほ、むしろ自らの醜さをよく知っているからこそうかれ騒ぎ、写真に「よくとられ」たがり、醜さに目をつぶりたがるのだから。

 そしてこのことは、とりわけ人間の写真をとる時に、最も重大な意味を帯びてくるのは言うまでもないことと思う。なぜなら、人間をよくとること、美しくとるということ、言いかえれば、カメラという「ハシタナイ凶器」で人間の醜さやいやらしさを絶対にあばかないということは、相手を傷つけまいとする深い配慮と思いやりはもちろんのこと、相手への、そして人間へのあたたかい愛情とやさしさがなくてはできないことなのだから。美しくとるということ、きれいな写真をとるということほ、実は怖るべき難しい仕事にちがいないのだ。


ぼくが猫語を話せるわけ (1978年)
赤頭巾ちゃん気をつけて


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[2013/06/10 12:33] | おすすめの本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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