色彩を持たない多崎つくるを読む
多崎つくる


 今日新しいブックオフに行ってきた。「ねじまき鳥クロニクル2」と「ダンス・ダンス・ダンス上」「海辺のカフカ上」をそれぞれ\200で買ってきた。最初の2つは初版で、カフカは2刷だった。これで「ねじまき鳥クロニクル」は3冊とも初版で揃った。あとの2冊は¥105だった。あんなにたくさん売れている本(かどうかはよく知らないが)の初版などが、どうして簡単に手に入るのだろう。

 昨日読んだのが、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」たしか昨年出た本だと思う。図書館でリクエストしようとしたら、予約が千件以上入っていたので、キッパリあきらめた。「海辺のカフカ」も「1Q84」も3年ぐらい待たないと借りられなかった。

 「スプートニクの恋人」と「アフターダーク」のような短めの小説は、予想通り、ピンと来なかったので、この「多崎つくる」も、図書館に出るまで待つ、つもりだった。そんなに急いで読むほどの本ではあるまい。ところが、先日、他の市の図書館に行ったら、返却図書の棚に、(あたりまえだが)普通の本と同じように置いてあった。それで、思ったより早く読むことになった。

 ちなみにこの本を読む前日までは、失われた時を求めて 7 吉川一義訳岩波文庫 ゲルマントのほう3、を読んでいた。この2回目の「失われた時を求めて」はとてもいいが、さすがにやっぱり、村上春樹の日本語というか、思考回路というかは、しっくりくる。「国境の南 太陽の西」のようにこの「多崎つくる」も、状況が自分の身に照らして、感じるところがずいぶんある。

 たぶん若い人には、こんな感覚はわからないかもしれないというところが随所に出てくる。私は今年の夏も、小・中学校の同級生二人に、三十数年ぶりに会ったり、子どもの時に会った記憶しかない親戚の家を訪れたりした。そのお盆に訪問したおじさんが、亡くなったと、今日連絡があった。それはとても不思議な感覚だ。


 村上作品にはめずらしく、現実的な作品だが、不可解な部分は多い。灰田という青年と六本指の話なんてのは、ここに出てくる必然性がわからない。豊臣秀吉の話なんてのは歴史好きだったら知っているはずだ。リストのピアノ曲「巡礼の年」が出てくる。曲に興味はないが、ピアニストは知っている。なじみ深いブレンデルとベルマンの演奏の違いが何の意味があるのだ。いつもながら村上小説では、ピアノを弾く女性が問題を抱えている。美人でもお近づきになりたくない。ヴィオラを弾く女性とか、クラリネットを吹く女性の方が、ありそうな気がする。

 アカ・アオ・クロ・シロの4色については、風水の五芒星などと関連するのかもしれないが、私にとっては、以前も書いたが、赤頭巾・青髭・黒頭巾・白鳥、の4部作が思い浮かぶ。白鳥が死を暗示しているのは言うまでもない。

表紙はモーリス・ルイスだ。中学時代の美術の教科書の表紙になっていたから、それ以来馴染みのある画風だ。近代美術館などにも展示されている。いろいろな色の塗料を、立てたキャンバスの上から自然に垂らした、一見、色鉛筆を立てただけのような色が並列している。

 急いで読むほどの本では、やっぱりなかったが、おもしろかった。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年


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[2014/09/09 17:51] | おすすめの本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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