夢の途中
 睡眠中の夢では、続きを見たりすることはないだろうけれど、小説家は夢を見はじめたら、毎日その続きを見ているようなものだと言っている。そもそも夢を見ないという人や、確かに見たのだが内容をほとんど覚えていないという人もいる。実際に夢の続きを見るということは、ほとんどないことなのだろうか。

 私の場合、起きがけの夢は、わりと長時間覚えていて、次に寝るときに思い返したりする。悪夢はすぐに忘れようとするので、忘れにくいのは、楽しい夢だ。こんなことが起こったけれど、もう一度会えるのだろうか、途中で終わったけれどこの先はどうなるのだろうか、と反芻していると、まんまと同じ状況の延長の夢を見ることがある。たいていその場合は、夢にありがちな突拍子もないものではなくて、現実に近い状況のお話である。さすがに三回目はないけれど。

 ということで再度、村上春樹「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」から、創作活動に参考になったり、なんにもならなかったりする部分を。

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 フィクションを書くのは、夢を見るのと同じです。夢を見るときに体験することが、そこで同じように行われます。意図してストーリー・ラインを改変することはできません。ただそこにあるものを、そのまま体験していくしかありません。夢を見たいと思っても、我々には眠る必要はありません。我々は意図的に、好きなだけ夢を長く見続けることができます。今日の夢の続きを明日、明後日と継続して見ることもできる。これは素晴らしい体験ではあるけれど、そこには危険性もあります。

 もし悪夢を見れば、あなたは悲鳴を上げて目覚めます。でも書いているときにはそうはいきません。目覚めながら見ている夢の中では、我々はその悪夢を、そのまま耐えなくてはなりません。ストーリー・ラインは自立したものであり、我々には勝手にそれを変更することはできないからです。夢が進行するままを、眺め続けなくてはなりません。

 少年について書くことは、素晴らしいことでした。僕自身が一五歳だった日々に戻ることができたんです。作家であることのすばらしさですよ。本気で願うなら、誰にでもなることができるんです。もし一五歳の時に感じていたことを、僕自身が本当に経験できたなら、読者もまた同じ経験をし、この感情を共有することができる。それは、物語からの最高の贈り物です。僕が生きるのをそれは助けてくれます。僕らの存在はときにあまりにも孤立していますが、物語があれば、もう一人ではありません。

 そうした場面は、先ほどお話しした隠れ扉を、読者が自分で開くことを可能にしてくれるからです。僕は読者の精神を揺さぶり、ふるわせることで、読者自身の秘密の部分にかかった覆いをとりのぞきたい。それでこそ、読者と僕のあいだに、何かが起きるんです。
 
 百のうち九十までは、自分で実際に経験したことのないことです。僕自身の実際の人生は、かなり退屈で、物静かなものです。しかし、どのようなささやかな、日常的なことからでも、大きな、深いドラマを引き出していくのが、作家の仕事であると思います。『人を観察するのは好きだけど、判断を下すのは避ける』というのも、作家の性向の一つです。

 しかしまだその時期ではないですね。もっと時間をおく必要があります。小説というのは、インテイクしたものを全部出しちゃいけないですよね。取り込んだものの中からいちばん大事な部分だけ抽出して使うというか、またある場合にはそのすべてを抱え込んで、飲み込んで、それとはまったく違ったかたちでもって書くとか、そういう我慢がすごく大事な要素になります。

 だから僕は、小説家の作業にとっていちばん大事なのは、待つことじゃないかと思うんです。何を書くべきかというより、むしろ何を書かないでいるべきか。書く時期が問題なんじゃなくて、書かない時期が問題なんじゃないかと。小説を書いていない時間に、自分がどれだけのものを小説的に、自分の体内に詰め込んでいけるということが、結果的にすごく大きな意味を持ってきますよね。

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テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

[2015/08/09 18:15] | 美術の本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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