職業としての小説家
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 私は本屋さんや図書館には、行かない日の方が少ないぐらい行っています。週のうち5日ぐらいは、どちらかに立ち寄ります。欲しい新刊を確認したり、予約したりしますが、実のところはほとんど図書館から借りてきて読みます。それでも年に何十冊かは買います。それはすでに借りてきて読んで、気に入った本を買うのです。

 読んでいない新刊を買うと、ほとんどの場合後で後悔します。レコードなどもそうです。自分には見る目がない、また無駄なものを買ってしまったと思うのです。ですから本屋さんで見つけて、いきなり新刊を買うというのは、年に一度ある程度のめずらしいことです。

 今までの経験から、村上春樹の大長編またはエッセイ集だったら買っても後悔しないと思っていたので、本屋に入って真っ先に目についたこともあって手に取りました。「アフターダーク」とか先日の「色彩を持たない~」などの短い作品は所有しなくても気になりません。たまたま図書館で見つけたら、読んでもいいかなと思うぐらいです。

 いろいろな、たとえばインタビュー集やマラソンについてのエッセイなどでも小説作法について書いていますが、この本は、真正面から、本人の小説家としての生き方を書いています。以下その『職業としての小説家 』の中から、なにごとにも適用できそうなことを。これはバラバラの部分の寄せ集めで、つながっている文章ではありません。




 僕にとって長編小説こそが生命線であり、短編小説や中編小説は極言すれば、長編小説を書くための大事な練習場であり、有効なステップであると言ってしまっていいのではないかと思います。

 僕にはひとつ個人的ルールがあります。それは「けちをつけられた部分があれば、何はともあれ書き直そうぜ」ということです。批評に納得がいかなくても、とにかく指摘を受けた部分があれば、そこを頭から書き直します。指摘に同意できない場合には、相手の助言とは全然違う方向に書き直したりもします。

 なぜかと言えば、正気の人間には長編小説なんてものは、まず書けっこないからです。ですから正気を失うこと自体には特に問題ありませんが、それでも「自分がある程度正気を失っている」ということだけは自覚しておかなくてはなりません。そして、正気を失っている人間にとって、正気の人間の意見はおおむね大事なものです。

 読んだ人がある部分について何かを指摘するとき、指摘の方向性はともかく、そこには何かしらの問題が含まれていることが多いようです。たとえ「これ完璧に書けているよ。書き直す必要なんてない」と思ったとしても、黙って机に向かい、とにかく書き直します。

 ここで僕が言いたいのは、どんな文章にだって必ず改良の余地はあるということです。本人がどんなに「よくできた」「完璧だ」と思っても、もっとよくなる可能性はそこにあるのです。

 つまり大事なのは、書き直すという行為そのものなのです。作家が「ここをもっとうまく書き直してやろう」と決意して机の前に腰を据え、文章に手を入れる、そういう姿勢そのものがなにより重要な意味を持ちます。それに比べれば「どのように書き直すか」という方向性なんて、むしろ二次的なものかもしれません。多くの場合、作家の本能や直感は、論理性の中からではなく、決意の中からより有効に引き出されます。

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テーマ:読んだ本。 - ジャンル:本・雑誌

[2015/09/19 17:52] | おすすめの本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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