時間がなくて本も読めません
塩野男たち

☆前と同じ公園の、枯れている紅葉。

 まあ、意外なことであるのか、まっとうなことであるのか、京都にはかぐや姫が合う。竹取物語ではなくて、南こうせつと、の方である。それから草枕(朗読)も、やっぱりいい。
絵を描かずに旅をしている画工の話だ。
坂道でなくても、考えることばっかり。

 えっと、とりあえず久しぶりにお薦めの図書。
どうも前に出したか覚えていないけど『男たちへ 塩野七生』より。


 人間というものは、いかに心の中で思っていても、それを口にするかしないかで、以後の感情の展開がちがってくるものである。いったん口にすると、誰よりもまず自分が聞くことになる。どれくらい真実がふくまれているかどうかは、問題ではないのである。口にして以後、真実がふくまれはじめてくるのだ。

 「口には出さなくても愛している」とか「言葉を超えるほどの愛」とかいう言葉を耳にすると、私は、哀れみさえも感じる。そんなことは、外側を変えることによって内側を変えるという、人間相手にしか通用しないこの愉しみとは修正無縁な、感受性の鈍い人々だけの話と思うからである。


 女が少しでも美しく見せたいために、あらゆる努力を惜しまないのは、正当な理由がちゃんとあって、ために真剣な話なのである。だが、男は、真剣な態度で望むことは別にあるのが、男というものだ。所詮、われわれ女は、身だしなみ意外に真剣勝負をするものを持っている男を欲しているからである。つまり、着こなしに気をつかうことなど、男にとっては遊びにすぎない。

 めんどくさいということは、おしゃれだけでなく、すべてにつながることであり、また、めんどうだからというのは、感受性や好奇心の欠如を、カムフラージュするのに使われることが多いからである。時間がなくて、という言いわけとよく似ている。私は、時間がなくて本も読めません、という弁解を、絶対に信じない。


 私にとって厳正に平等な人間関係は、同姓である女との間にしか存在しない。男との関係となると、まったく一つの例外もなく、不平等になる。いや、なるのではなく、私がわざと、そういう関係にしてしまうのである。ほとんどの場合、私の方が下なのだ。男に私淑したり兄事しているほうが、人生はよほど多様になり深みを増し、そして楽しくなるのではないかと思う。

 男が女に魅力を感じるとは、所詮、その女を抱いてみたいという思いを起こすことであり、女が男に魅力を感ずるとは、その男にだかれてみたいと思うことに、つきるような気がする。頭の中身も容姿も、この種の健全なる欲望を補強する程度の働きしかない。健全で自然で、人間の本性にもっとも忠実なこの欲望を刺激するのが、人のもっている魅力というものだろう。インテリ男がセクシーでないのは、補強する程度の働きしか持たないものに、最高の価値をおく生き方をしているからである。

 われわれ女が男から性的対象と見られて、なにがいけないのであろう。男も女も、相手を性的対象として思うだけであったら、性的にも続かないものなのだから、心配することはないのである。


 優しい若者を、私は若者だと思わない。若者が優しくあれるはずはないのである。すべてのことが可能だと思っている年頃は、高慢で不遜である方が似つかわしい。やさしさは、悲しさでもあるのだ。そして、忍耐を持って、他者に対することができるようになる。

 成功する男とは、まず第一に、体全体からえもいわれぬ明るさを漂わせる男だ。たいていの人は何かしら苦悩をかかえて生きている。その人々にとって、明るさを持つ人は、それ自体ですでに救いなのである。人は、不幸な人には同情はしても、愛し、協力を惜しまないのは、幸運に恵まれた人に対してである。

 われわれは知っている。紅きくちびるの乙女時代に、なんというばかげた恋しかしなかったかということを。恋は、明日の月日はないものを、がわかる年頃になって、はじめてできるものではないだろうか。

 わたしたち女は、男を尊敬したくてウズウズしているのである。男たちよ、その期待を裏切らないでください。そうでないと、わたしたちの愛を、誰に向けていいのかわからなくなります。




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[2015/12/11 17:21] | おすすめの本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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