The Grass Pillow or Tristram Shandy 2
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 世の中に、小説の読み方、読書案内などの本は何百冊もあって、見つけた本はなるべく読むようにしている。それにしても、漱石によるトリストラム・シャンデー風の読書論は変わっている。ほとんどの物語はストーリーが重要であるから、前から順番に読むのが当たり前である。ミステリーなんか、バラして読んだらどうしようもない。そこへいくと純文学のあるものは、どこを読んでもいいような気がするものがある。

 かくいう『トリストラム・シャンディ』も『草枕』もそうである。『雪国』や『失われた時を求めて』も、どこを開いても同じようにいい。内容の密度に偏りがない。これは、すでにあらすじなど熟知している場合に限るのかもしれない。最初に読むときは、さすがに、順番どおり読んだ方がいいだろう。それから先のことだ。やはり読書というものは、何遍も読むのが読書なのである。



「西洋の本ですか、むずかしい事が書いてあるでしょうね」
「なあに」
「じゃ何が書いてあるんです」
「そうですね。実はわたしにも、よく分らないんです」
「ホホホホ。それで御勉強なの」
「勉強じゃありません。ただ机の上へ、こう開けて、開いた所をいい加減に読んでるんです」
「それで面白いんですか」
「それが面白いんです」
「なぜ?」
「なぜって、小説なんか、そうして読む方が面白いです」
「よっぽど変っていらっしゃるのね」
「ええ、ちっと変ってます」
「初から読んじゃ、どうして悪いでしょう」
「初から読まなけりゃならないとすると、しまいまで読まなけりゃならない訳になりましょう」
「妙なりくつだ事。しまいまで読んだっていいじゃありませんか」
「無論わるくは、ありませんよ。筋を読む気なら、わたしだって、そうします」
「筋を読まなけりゃ何を読むんです。筋のほかに何か読むものがありますか」
 余は、やはり女だなと思った。多少試験してやる気になる。
「あなたは小説が好きですか」
「私が?」と句を切った女は、あとから「そうですねえ」と判然はっきりしない返事をした。あまり好きでもなさそうだ。
「好きだか、嫌きらいだか自分にも解らないんじゃないですか」
「小説なんか読んだって、読まなくったって……」
と眼中にはまるで小説の存在を認めていない。
「それじゃ、初から読んだって、しまいから読んだって、いい加減な所をいい加減に読んだって、いい訳じゃありませんか。あなたのようにそう不思議がらないでもいいでしょう」
「だって、あなたと私とは違いますもの」
「どこが?」と余は女の眼の中うちを見詰めた。試験をするのはここだと思ったが、女のひとみは少しも動かない。
「ホホホホ解りませんか」
「しかし若いうちは随分御読みなすったろう」余は一本道で押し合うのをやめにして、ちょっと裏へ廻った。
「今でも若いつもりですよ。かわいそうに」放した鷹はまたそれかかる。すこしも油断がならん。
「そんな事が男の前で云えれば、もう年寄のうちですよ」と、やっと引き戻した。
「そう云うあなたも随分の御年じゃあ、ありませんか。そんなに年をとっても、やっぱり、惚ほれたの、腫はれたの、にきびが出来たのってえ事が面白いんですか」
「ええ、面白いんです、死ぬまで面白いんです」
「おやそう。それだから画工なんぞになれるんですね」
「全くです。画工だから、小説なんか初からしまいまで読む必要はないんです。けれども、どこを読んでも面白いのです。あなたと話をするのも面白い。ここへ逗留しているうちは毎日話をしたいくらいです。何ならあなたに惚れ込んでもいい。そうなるとなお面白い。しかしいくら惚れてもあなたと夫婦になる必要はないんです。惚れて夫婦になる必要があるうちは、小説を初からしまいまで読む必要があるんです」
「すると不人情ふにんじょうな惚れ方をするのが画工なんですね」
「不人情じゃありません。非人情な惚れ方をするんです。小説も非人情で読むから、筋なんかどうでもいいんです。こうして、おみくじを引くように、ぱっと開あけて、開いた所を、漫然と読んでるのが面白いんです」
「なるほど面白そうね。じゃ、今あなたが読んでいらっしゃる所を、少し話してちょうだい。どんな面白い事が出てくるか伺いたいから」
「話しちゃ駄目です。画だって話にしちゃ一文のねうちもなくなるじゃありませんか」(草枕より、余と那美さんの会話)



 『トリストラム・シャンディ』を読み始めて何か書こうと思ったら、『草枕』が多くなってしまった。きっと、共通点が多いのである。スジのない話を非人情に、適当に読んでいると、なかなか読み終わらない。部分的には面白い話なんだけど。少々無理して読まないと終わらないかもしれない。でも話したら一文の値打ちもなくなるんだな。なるべく書かないようにしようか。

 『トリストラム・シャンディ』ふうに思えば、人生なんて神の意志によるのであって、本人には責任がないと言いたい。職業選択の自由なんてものが存在するようになるのは近年のことであって、都市に住んでいる人には信じられないだろうが、ほとんどの人は農業に従事していたのだ。あるいはせいぜい兼業農家であった。私の子供の頃にして、教師と僧侶と警官以外は農家だった。教師にしても、農繁期には休みを多めに取って家の水田の手伝いをしていた。70年前に生きていたら、確実に農業に従事していた。(何しろ道が通じたのが50年前だ)私が農業をせずに、非人情な画工で生きているのも、本人には責任がない。そうに違いない。そう思うことにしよう、。




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[2016/02/18 18:16] | おすすめの本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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