鮮やかに痛い。
暮らしの哲学16



 数年前に、中学校時代の同級生数人と都内で会いました。30年以上たっていることよりも、記憶にある姿は子供なのだから、りっぱな初老のおじさん、おばさんを見てもピンと来ません。しかも田舎ではなくて東京です。何十年も未来の自分は他人と同じ、と書きましたが、同級生はもっと他人です。過去の自分が他人とは、言い切れませんが。

 それでもしゃべっているうちに、中学生時代の自分を思い出し、ついでに高校、大学時代の記憶がいもづる式に甦ってきました。あの頃は、30年なんて時間が過ぎることなど想像もつきませんでした。ど根性ガエルの町田先生でも「教師生活25年、こんな経験したことがない」と嘆くのです。いま、自分がこんな生活をしているのは、ほんとうに不思議です。


 久しぶりに『暮らしの哲学 池田晶子』より。


 ないもの、あるいはまだ持っていないもの、そして失くしつつあるものを「欲しい」と思うところに、われわれの不幸は発生するようです。「欲しい」心が、不幸な心であるようです。お金が欲しい、ものが欲しいで生きてきて、何とかそれらを手に入れた、次に欲しくなるのは、いま失いつつあるこの若さです。いつまでも心が見たされず、幸福になれないのは道理です。

 世間のほとんどの人は、こういう当たり前のこと、当たり前すぎることについて、考えるということを滅多にしていない。どころか、そういう事柄が存在しているということにすら気がついていないのだということに、世間で生きるにつれて気がつくことになる。私が自分は本当に変わっているのだと認識したのは、実はそんなに遠いことではありません。はたち過ぎればタダの人、と世間では言われます。しかし私は、はたちを過ぎて、いよいよ自分がタダの人ではなくなってゆくのを感じた。


 私が年をとることを、おいしい、面白いと感じるのは、自分の心がいよいよ深く豊かになってゆくのをはっきりと自覚するからです。ああ、こんな感覚、こんな考えは、若い頃には知らなかった。こんなにも深く、あの考えが成長した、こういう内なる成熟を、日々観察し味わいつつ暮らすことである老いるということは、私にとって非常な喜びでありまして、神はわれわれの晩年にかくも素晴らしいご褒美を用意してくれていたのか、そういう感謝めいた気持ちにすらなるものです。

 今年もまた桜が咲きました。
 当たり前のことのようだけれども、この当たり前のことが、年々歳々、深く感じられるようになるのは、どういうわけなのでしょうね。
この感じ、この感慨とは、何なのか。

要するに、生と死、すなわち他でもない「人生」というものに、深いところで触れてくるのですね、この「桜」、もしくは「春」というこの季節は。
 「春は残酷な季節だ」、今なら、この作者が感じているそのことが、はっきりわかりますね。「始まりは痛みである」、ああこのことだったのかと、まさしく痛いしかたで理解しますね。つまり、このことを理解するために、私にはこれだけの歳月、これだけの人生を重ねる必要があったのだということです。

 つまり「生命」なんですね。われわれがこの若葉の頃、薫る風を受けて、そのことだけで心浮き立つというこのことは。こんな他愛ないことを理解するまでに、やっぱりずいぶん年期がかかったなあという感じがします。初夏の風が気持ちいいなんて、馬鹿みたいに当たり前のことで、それがどうしてなのかという問いは、若年の頃には立ちませんでしたね。

 失くしたものがある。亡くなった人もいる。過ぎ去って還らないもの、失われて戻らないもの、その不在の感覚が、けれども春になると変わらずに咲く桜の花に、その満開に、鮮やかに痛いのでしょうね。
 

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[2016/06/09 17:37] | おすすめの本 2 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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