内田樹の最終講義
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 最近は、先生に対して「これこれを覚えて、何か役に立つんですか?」という質問をする生徒が増えたそうだ。高校生・大学生ばかりではなくて、小学一年生からも出るそうだ。大人に対しても難しいだろうが、小学生を納得させるような説明は不可能だろう。それは「何のために生きているのですか?」「長生きすると何か良いことがあるのですか?」

 私も学生の頃に、源氏物語の感想を聞く先生に対して、こんな話全然おもしろくないと発言して困らせた覚えがある。こんな古い宮廷物語なんて勉強する意味があるのかと思っていたのだ。ある漢文の先生は、今は勉強する意味が分からないだろうが、大人になったら役に立つと言った。あなたは漢文の先生をやっているから、役に立っているんだろうと思った。

 しかし、今になって思うと、古典や漢文をちょっとだけかじっておいて良かったと思う。国語の時間に習った文章、とりわけ和歌なんかは、ある時ふと心に浮かんで。ああ、この感情とピッタリ寄り添う歌だと気づく。それから、毎年訪れる桜を見る感慨が、年と共に深まってゆく。若い頃って、人も景色も、何も見てなかったんだと気づく。

 吉田松陰が幼少の頃から、体罰を含む厳しい教育を受けて育ったことは有名ですが、
『最終講義 内田樹』
ここにも驚くことが書いてありました。以下、自由に抜粋。


 吉田松陰が叔父の玉木文之進から素読を習うときの逸話。玉木が田を耕していて、一畝耕して戻ってくるまでに、指示された箇所を暗記する、覚えていなかったらはり倒されるという非常に過酷な授業をしたわけです。

 子供に四書五経の素読なんてさせたって、学問的有用性はまったくないんです。では、いったい何を教えているのかというと、「子供には理解できないような価値が世界には存在する」ということそれ自体を教えているわけです。子どもに、「手持ちの小さな知的枠組みに収まるな」ということを殴りつけて教え込んでいる。それさえわかれば、後は子ども自身が自学自習するから。

 ふつうは感動が先で、それを「言葉にする」という順序でものごとは起こると思われているけれど、そうでもないんです。最初に言葉がある。この言葉が何を意味するかよく分からないままに記憶させられる。そして、ある日その言葉に対応する意味を身体で実感することが起きる。

 まず言葉がある。「しずこころなく花の散るらむ」とか「心頭滅却すれば火もまた涼し」とかいうのは言葉だけいくら覚えても、十歳やそこらの子どもに身体実感の裏づけがあるはずがない。でも、言葉だけは覚えさせられる。それによって、自分自身の貧しい経験や身体実感では説明できないような「他者の身体」「他者の感覚」「他者の思念」のためのスペースが自分の中にむりやりこじ開けられる。そして、成長してゆくうちに、その「スペース」に、ひとつづつ自分自身の生々しい身体実感、自分の血と汗がしみこんだ思いが堆積してゆく。そんなふうにして子どもは成長してゆくんです。

最終講義 生き延びるための七講
街場の共同体論
困難な結婚


 だからね。たとえばピカソの絵なんかも、本物を見ておいた方がいいと思うぞ。

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[2017/02/25 17:28] | おすすめの本 2 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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