大事な言葉は片耳にささやけ
片耳に囁



『指揮者の仕事術 伊東乾』より


 さてここで、この章の冒頭に記したまま答えをお預けにしておいた、「聴き手に言葉の意味を明確に伝えるためには、実はシンプルな原則とコツがある」ということについて触れてみたいと思います。意外なほど知られていないそれは、いまお話しした 「主に片耳に向けて歌う」 ということなのです。

「主に片耳に向けて歌う? そんなの聞いたことがない」 と思われるかもしれません。でも、ちょっと注意深く調べてみると、いまご説明したとおり、キリスト教の教令などにも記されている、実は大変オーソドックスなテクニックであることが分かります。

 これを現代の日本の例で考えてみましょう。たとえば、携帯電話で話す場面をイメージしてみてください。携帯電話は片手で持ち、片耳で相手の声を聞きながら話しますね。電話の音声は1チャンネル、つまりAMラジオと同じように 「モノラル」 で送られてきます。FMのような 「ステレオ」 ではありません。なぜでしょう? せっかく技術が進歩しているのですから、よりよい音質でステレオ通話ができてもよさそうなものなのに……。

 実は、人間は音を聞きとろうとするとき、利き耳だけで聞いています。そして、利き耳でないほうの耳から入ってくる音は、脳のなかで「捨てて」しまっているのです。脳科学の言葉を使うなら、利き耳以外から入ってくるニューロンの「発火」を、中枢は有用な情報として取り込まないようになっているということになります。

 では、両耳に同じ強さで音が入ってきたらどうでしょうか? その場合は、言葉の意味が聞き取りにくくなつてしまいます(これは「両耳マスキング」として知られている認知現象です)。「両耳」で音を聞こうとするのは、周囲の気配を知ろうとするときです。

 この現象、実は視覚についても同じようなことがいえます。文字を読むとき私たちは、もっぱら利き目だけで文字を追っています。ためしに、いまこの本を読みながら片目ずつウインクしてみてください。視野が変化しないほうの目が利き目です。もう片方の目から入った刺激は、脳によって知的な情報として認知されないため、見過ごされてしまうのです。

 逆に街を歩いたり、山登りをしたり、スポーツをしているときなど、私たちは両目を使って周囲の環境全体を察知しようとするのです。

 話を少し戻して、ここで 「片耳に向かって話しかける」 というテクニックの普遍性に注目することにします。というのも、同様の原理が西欧のオペラにも存在しているからです。 オペラでは、いくら舞台で一生懸命に歌っても、もしその言葉の意味が客席にいる人に伝わらなければ、歌詞の内容も通じません。

「オペラを見に行ったけれど、歌手がわぁわぁ大きな声を出しているだけで、何を歌っているのか、さっぱり分からなかった」 という話はどこの国でもよく耳にします。実際、舞台上で考えなしに大声を出しても、聴衆にその内容はほとんど伝わりません。

 オペラ歌手が聴衆に言葉の意味をきちんと伝えるためには、できるだけ聴き手の片方の耳に選択的に声が届くよう、歌う位置や声の届く方向を工夫しなくてはなりません。もっと明確にいうなら、劇場全体を「左右非対称に響かせる」ように声を出すことが重要です。

 マイクロフォンやスピーカーが普及する1950年代より以前、イタリアオペラの歌手にとって、このテクニックは常識でした。伝説的な名歌手エンリーコ・カルーソーをはじめ「イタリア楽派 (スクオラ・イタリアーナ)」 と呼ばれた歌手たちは、以下のようなコツを念頭において、リハーサルの間にホールの音響を確認していました。

(0.舞台の中央には絶対に立ってはいけない)
1.必ず舞台中央から右か左に寄った場所に立って
2.その位置から、もっともよく反響が返ってくる 「目標となる斜め横の壁や天井」 を探し出し、それに向かって歌え

 なかなか教訓に富む詣です。実際、カルーソーやジャコモ・ラウリ=ヴオルピなど往年のスクオラ・イタリアーナの名歌手の歌を生で聴いた経験をお持ちの方々 (すでに高齢でいらっしゃいますが)は、「弱い声は、本当に耳元でささやくように聞こえた」と言われます。

 当時の歌手は巧みな知恵と合理的な根拠に基づいて、歌をホール全体に響かせていたのです。これこそまさに「声の芸術」です。
最近のオペラ公演では、演出に工夫を凝らして、観客の好奇心をかき立てます。しかし、演出家は必ずしも音楽作りの現場を知りません。このために、視覚に偏った工夫がむしろ鬼面人を威す珍演出となり、歌手や演奏者が本番で苦労することも実は少なくありません。



 

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[2011/05/21 23:00] | 音楽の本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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