外側を変えることによって内側を変える
男たち塩1

☆ グラスミア イギリス 2010


久しぶりに塩野七生さんの本から、目立たない本の、目立たない部分をどうぞ。
『男たちへ 塩野七生』より。

 人間というものは、いかに心の中で思っていても、それを口にするかしないかで、以後の感情の展開がちがってくるものである。いったん口にすると、誰よりもまず自分が聞くことになる。どれくらい真実がふくまれているかどうかは、問題ではないのである。口にして以後、真実がふくまれはじめてくるのだ。「口には出さなくても愛している」とか「言葉を超えるほどの愛」とかいう言葉を耳にすると、私は、哀れみさえも感じる。そんなことは、外側を変えることによって内側を変えるという、人間相手にしか通用しないこの愉しみとは修正無縁な、感受性の鈍い人々だけの話と思うからである。

 言葉であろうと行為であろうと、客観的な形になったものがいかに内実に影響を与えるかの例は、なにも愛の言葉にかぎったわけではない。恋人でも夫婦でも、男女の関係には、友人同士とはどこか違うものがなくてはつまらない。人間の長い一生のうちで、そうそう何度も恵まれるものではないのだから、恵まれた以上、完全に味わうよう努力すべきではないかと思うのだが。

 人間というものは、男とか女とかにかぎらず、二人でいれば、なにかを話さねばすまない動物である。言葉が必要でない場合もあるにはあるが、まったく言葉なしで長時間いっしょにいることはむずかしい。そして、対話とは、必ずしも真実であることばかりを話していては成り立たないことも知っている。生身の人間同士の、つながりを深めるのが対話なのである。それが男と女であるの場合、しばしば双方とも、自らの願望を口にすることがあるものだ。人間は、客観的に真実であることと、自分自身が真実であると思いたがっていることを、常に明確に分離して話すことができない動物だからである。

 私にとって厳正に平等な人間関係は、同姓である女との間にしか存在しない。男との関係となると、まったく一つの例外もなく、不平等になる。いや、なるのではなく、私がわざと、そういう関係にしてしまうのである。ほとんどの場合、私の方が下なのだ。
 ほんとうは、叱ってもらいたかったのだ。叱ったりはげましたりしてくれると、書けなくなっていたのが、書けるようになるのだから。こういう関係を維持していくためには、男女平等なんて、不利以外のなにものでもない。相手に絶対に優位に立っていてもらわなくては、具合が悪いのである。私たち女には、男に私淑したり兄事しているほうが、人生はよほど多様になり深みを増し、そして楽しくなるのではないかと思う。


男たちへ―フツウの男をフツウでない男にするための54章 (文春文庫)
再び男たちへ―フツウであることに満足できなくなった男のための63章 (文春文庫)
日本人へ リーダー篇 (文春新書)


 
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[2012/07/10 13:37] | おすすめの本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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